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渡来人、読文学。

中国史や野球、マンガや小説、アニメなどの感想についてのブログです。

二十四史邦訳計画 『史記』三皇本紀(了)

二十四史 史記 注釈など

 ということで、まずは『史記』「三皇本紀」です。とりあえず信憑性は脇に置きましょう。唐人が補填したことには理由がありまぁす(強弁)。

 まどろっこしいし今興味ある時代にも踏み出したいところであるので『後漢書』やら『晋書』やらも同時に訳していこうと思っておりますが。あと『晋書』はむしろ功名心ですな。ググっても老舗様達が生真面目に訳した物しか出てこないから両晋南北朝やっちゃえーという。そちらは真面目な訳なので若干心も折れかけましたがこちらは速さと簡便さで勝負してやるとの意気込みで。後、私訳ですので当然他の方がやられている部分も全部やってまいります。訳も色々あれば解釈も色々ありましょうしね。

では訳して参りましょう。

 

司馬遷所撰的《史記》本來有《三皇本紀》一篇,但《三皇本紀》很早已亡佚,在《漢書》已不見其目。唐代的司馬貞為了補上這闕漏,收集了當時所見的相關文獻,作了這篇《三皇本紀》。這篇《三皇本紀》雖然是補《史記》之闕,但也摻雜了不少神話,故不被奉為正史。 

 現代中国語じゃねえか。 

 文章の来歴の解説ね、解説。

 司馬遷が選した所の『史記』には本来「三皇本紀」の一篇があった。ただ、「三皇本紀」はとても早い内に散佚してしまい、『漢書』の目録にはすでに見えない。唐代の司馬貞はこの欠けた部分を補うため、当時関係すると思われた文献を集めて、この「三皇本紀」を作った。しかしこの「三皇本紀」は史記の欠けた部分を補ったとはいえ、神話が少なからず混ざり込んでもいた。故に正史として奉られることはなかった。

版本は

上海古籍出版社『四庫全書』《欽定四庫全書》《史記索隱·卷三十·三皇本紀第二》

だそうです。

 作者は唐の司馬貞ということになります。

 本文行きましょう。まずは伏羲から。

 太皞,庖犧氏,風姓,代燧人氏繼天而王。母曰華胥,履大人跡於雷澤,而生庖犧於成紀。虵身人首,有聖德。仰則觀象於天,俯則觀法於地,旁觀鳥獸之文與地之宜。近取諸身,遠取諸物,始畫八卦,以通神明之德,以類萬物之情。造書契,以代結繩之政。於是始制嫁娶,以儷皮為禮。結網罟,以教佃漁,故曰宓羲氏。養犧牲以庖犧,有龍瑞,以龍紀官,號曰龍師。作二十五絃之瑟。木德王,注春令。故《易》稱帝出于震,《月令》孟春:「其帝太皞」是也。都於陳,東封太山。立一百一十一年崩。其後裔當春秋時有任、宿、須句、顓臾,皆風姓之胤也。

 太皞は,庖犧氏,風姓にして、燧人氏に代はり天を繼ぎて王なり。母をして華胥と曰ひ,大人を雷澤に於て跡(あと)を履み,而して成紀に於て庖犧を生む。虵身人首にして,聖德有り。仰ぎて則ち天に於て象を觀,俯きて則ち地に於いて法を觀,旁に鳥獸之文と地之宜(まつ)り[1]を觀ゆ。近くより諸身を取り,遠くより諸物を取る,八卦を畫くことを始め,神明之德を以て通じ,萬物之情を以て類す。書契を作り,以て結繩之政に代ゆ。これ嫁娶の制を始むるに於て,儷皮[2]を以て禮と為す。網罟[3]を結い,以て佃漁[4]を教ふ,故に宓羲氏と曰ふ。庖犧を以て犠牲を養うに,龍の瑞有り,龍を以て官を紀(おさ)め[5],號して龍師と曰ふ。二十五絃之瑟を作る。木德の王なりて,春令[6]を注す[7]。故に《易》に帝を稱すれば震が出ずるといい,《月令》の孟春の:「其の帝は太皞なり」は是れ也。陳に於て都とし,東に太山を封ず。立ちて一百一十一年崩ず。其の後裔はまさに春秋時の任、宿、須句、顓臾にあるべし,皆風姓之胤也。

 [1]まつり、土地神を祭ること。

 [2]一対の鹿の皮、元服や婚礼の際に用いた。

 [3]あみ、罟は小さいあみ。

 [4]漁で鳥獣をとること。また魚をとること。

 [5]元締め、基礎とする、おさめる。

 [6]春の気候

 [7]解き明かす

 太皞は庖犧氏で、風姓であり、燧人氏に代わって天命を継いで王となった。母は華胥といい、有徳者を雷澤に追いかけていって、成紀で庖犧を生んだ。庖犧は蛇の身体に人の顔が付いており、聖なる德があった。天を仰ぎ見ては天象を観て、俯いては地の法を観て、傍らにあっては動物たちの言葉から土地神の祭祀を観た。諸々の才能を集め、遠くより沢山の物を集め、八卦をえがくことを始め,全てを見抜く才能をもって通じ、万物の性質をもって類別した。木に文字を刻む事による契約法を作り出し、縄文を使って記録する政治を改めた。妻を娶る制度を始めるにあたって、一対の鹿の皮を使う事を礼儀とした。様々な種の網を結って、漁を教えた。庖犧に生け贄となる動物を養わせると、龍の瑞祥があった。龍の瑞祥の事をもって官の規律をただし、号令して龍の軍隊といった。二十五絃の楽器を作った。木德の王であり、春の気候を解き明かした。ゆえに、《易経》に帝を称すれば地震が出るといい、《月令》の孟春に「其の帝は太皞なり」とあるのはこのことである。陳を都として、東の太山で封禅した。在位111年で崩御した。その後裔は春秋の時の任、宿、須句、顓臾であり、皆、風姓の子孫である。

 

 ワイ曰く、「現代中国語の方が圧倒的に簡単じゃねーか(震え声)」

 あとなんだかんだ秦漢三国あたりしか読んでなかったから気づかなかったけど、中国も古代は所謂「キープ(縄を結った物)」で記録する文化圏だったのね。縄文時代の日本や南米と同じ。もしかしてモンゴロイド系全般に特有?それとも、もしかしてシルクロードの向こうの方も一部そうなのかな?(無知)しかもこれ「嫁娶」の制をはじめるというのは女性による通い婚だったのを改めたってことだろうか?前段を見るにお母さんは女性主導のストーキングによる野合か何かだよね。

 動物の言葉(鳥獣之文)というのは異民族文化の隠喩かなぁ?それともトーテミズム?大学の頃教養で取った「北方民族論」で「鳥居の文化は基本的にトーテミズムに由来し、日本と同様のものがエヴェンキなどにも見られる」と聞いたことがあるが。何かネイティブアメリカンのような空気があって面白い。

 次行きましょう。女媧のところです。

女媧氏亦風姓,虵身人首,有神聖之德。代宓犧立,號曰女希氏。無革造,惟作笙簧。故《易》不載,不承五運。一曰女媧亦木德王,葢宓犧之後已經數世。金木輪環,週而復始,特舉女媧,以其功高而𠑽三皇,故類木王也。當其末年也,諸侯有共工氏,任智刑以強霸而不王,以水乘木,乃與祝融戰,不勝而怒。乃頭觸不周山崩,天柱折,地維𡙇。女媧乃鍊五色石以補天,斷鼇足以立四極,聚蘆灰以止滔水,以濟冀州。於是地平天成,不改舊物。

 女媧氏も亦風姓にして、虵身人首、神聖之德有り。宓犧に代りて立ち,號して女希氏と曰ふ。革めて造ること無く、惟だ笙簧(しょうこう)[1]を作らん。故に《易経》には載らず,五運を承けず。一に女媧も亦木德の王と曰ふ、葢(けだ)[2]し宓犧之後を已經(いけい)[3]すること數世。金木の輪環、週して而復た始まる、特に女媧を舉げ,其功高きを以て而三皇として𠑽(あ)てる[4],故は木王の類による也。當に其末年とすべき也、諸侯に共工氏有り、智刑を任じて強霸を以て而し王ならず,水を以て木に乗じ,乃ち祝融と戰し,勝たず而怒る。乃ち頭觸(さわ)[5]りて不周山崩れ,天柱折れて,地維𡙇く[6]。女媧乃ち五色の石を鍊りて以て天を補い,鼇[7]足を斷ちて以て四極に立てり,蘆灰を聚めて以て滔[8]水(とうすい)を止め,以て冀州を濟[9]う。於是地は平ぎ天は成り,舊物改められず。

 [1]笙のふえの舌

 [2]蓋の異体字

 [3]既に通り過ぎる、現代漢語の已経と同じ?

 [4]充の異体字とみられる。

 [5]触の異体字

 [6]欠の異体字

 [7]ごう、仙人の山を海中で支えているという亀

 [8]水がみなぎりあふれる

 [9]すくう、たすける

 女媧氏もまた風姓であり、人面蛇身、神聖なる德があった。宓犧に代って立ち,號して女希氏といった。改めて作ることがなく、ただ笛の道具を作ったのみであった。故に《易経》には載らず,五行に擬えられなかった。一説には、女媧もまた木德の王であるらしい、まさに宓犧の後を過ぎ去ること数世代。金徳と木徳の輪環が、一週してまた始まろうとしていた、特に女媧が推挙を受け,その功が高いことをもって三皇として充当されたのは[4],木徳の王の類であるからである。まさにその末年とすべき時期、諸侯に共工氏というものがいた、刑罰に詳しい事を任じて強力であったが、しかし王とはなれず、水徳を以て木徳に乗じ,(火徳の)祝融と戦したが,勝てなかったので怒った。頭を振り回したため不周山という山が崩れ,天の柱が折れて,地の繊維が裂けた。女媧は五色の石を練り上げて天を補い,仙山を支えると言われる亀の足を断って四方の極に立てた,蘆の灰をあつめて洪水をせき止め,冀州を救った。これによって地は平和になり天は成り,古い物が失われることがなかった。

 「推挙を受け」、というより「後世になって挙げられるようになったのは」、と訳すべきだろうか?前回がまだ未開な時代だが、徳と才知のある現実的な酋長だなぁと思っていたら、いきなりドラゴンボールレベルに世界観がインフレしてるのも気に掛かるところである。維持したことが何よりの功績だから地味で伝承の中でインフレしてったのだろうか。

 次、神農行ってみましょう。

女媧氏沒,神農氏作。炎帝,神農氏,姜姓。母曰女登,有蟜氏之女,為少典妃感神龍而生。炎帝人身牛首,長於姜水,因以為姓。火德王,故曰炎帝,以火名官,斲木為耜,揉木為耒,耒耨之用,以教萬人。始教耕,故號神農氏。於是作蜡祭,以赭鞭鞭草木,始嘗百草,始有毉藥。又作五絃之瑟,教人日中為市,交易而退,各得其所。遂重八卦,為六十四爻。初都陳,後居曲阜。立一百二十年崩,葬長沙。神農本起烈山,故左氏稱烈山氏之子曰柱,亦曰厲山氏。《禮》曰:「厲山氏之有天下」是也。神農納奔水氏之女,曰聽訞為妃,生帝魋。魋生帝承,承生帝明,明生帝直,直生帝氂,氂生帝哀,哀生帝克,克生帝榆。𦊀凡八代,五百三十年而軒轅氏興焉。其後有州、甫、甘、許、戲、露、齊、紀、怡、向、申、吕,皆姜姓之後胤。竝為諸侯,或分掌四岳。當周室,甫侯、申伯為王、賢相,齊、許列為諸侯,霸於中國。葢聖人德澤廣大,故其祚胤繁昌久長云。

 女媧氏沒し,神農氏と作る。炎帝は,神農氏といい,姜姓なり。母を女登と曰ふ,有蟜氏之女なり,少典の妃となり神龍を感じて生む。炎帝は人身牛首,姜水に於て長たり,因りて以て姓と為す。火德の王なり,故に炎帝曰ふ,火を以て官を名づく,木を斲[1]り耜[2](し)と為し,木を揉みて耒[3](すき)と為し,耒耨[4](らいどう)に之を用ふるを,以て萬人に教ふ。耕を教ふるを始む,故に神農氏と號す。於是蜡[5]の祭りを作り,赭鞭[6]を以て草木を鞭(むちう)ち,百草を嘗(こころ)[7]みるを始め,毉藥(いやく、医薬)の有るを始む。又五絃之瑟を作り,人に教え日中に市を為す,交易して而て退り,各(おのおの)其の所を得る。遂に八卦を重ね,六十四爻を為す。初め陳に都したが,後に曲阜に居す。立ちて一百二十年にして崩ず,長沙に葬る。神農本は烈山に起ち,故に左氏は烈山氏之子を稱して柱と曰ふ,亦厲山氏と曰ふ。《禮》に曰ふ:「厲山氏之有天下」は是れ也。神農は奔水氏之女を納れ,聽訞(ちょうはつ)と曰ひ妃と為す,帝魋を生む。魋は帝承を生む,承は帝明を生む,明は帝直を生む,直は帝氂を生む,氂は帝哀を生む,哀は帝克を生む,克は帝榆を生む。𦊀[8](あみ)すること凡そ八代,五百三十年にして軒轅氏は焉(ここ)に興る。其の後、州、甫、甘、許、戲、露、齊、紀、怡、向、申、吕が有るが、皆姜姓之後胤なり。竝びに諸侯と為る,或ひは四岳を分掌す。當に周室、中國を霸して、甫侯、申伯をして王、賢相となし、齊、許を列して諸侯となすべし。葢し聖人の德澤は廣大にして,故に其の祚胤(そいん)[9]が繁昌すること久しく長しと云ふ。

 [1]木を斬ること

 [2]鋤。

 [3]鋤。確かなんかで調べたときに上記のものと形状自体が違った気がした。

 [4]鋤と鍬、田を耕すこと。

 [5]ウジ虫、陰暦12月に行うお祭りのこと。

 [6]神農が薬草を探すために用いた鞭。本草学者の事を赭鞭家ともいう。

 [7]なめる、こころみる、ためす。

 [8]「网」の異体字か。

 [9]長く子孫まで幸いを授かること、転じて子孫の繁栄を指す。

  女媧氏(の世?)が没して、神農氏(の世?)となった。炎帝は、神農氏といい、姜姓である。母を女登といい、有蟜氏の女で、少典の妃となり神の龍を感じて生む(自信ない。龍を神感して生むの方が確かなような……でも辞書に用法がない)。炎帝は人身で牛首、姜水において長であった、このことから(姜を)姜を姓とした。火德の王である、故に炎帝といい、火を官に名付けた。木を斬っては鋤を作り、木を折っては鋤を作り、田を耕すときにこれを用いることを万人に広めた。耕すことを教えることを始めたため、そこから神農氏といわれた。これによって蜡を祭り、赭鞭をつかって草木を払い、百草の効用を試す事を始めて、医薬を作った。また五絃の瑟を作り、人に教えて日中に市を作らせるようにした、すると交易をしたあとは店をたたむようになり、おのおのが暮らすところを得るようになった。遂に八卦を重ねて、六十四爻というものを作った。初めは陳を都としたが、後に曲阜へと移り住んだ。即位して120年で崩御し、長沙に葬られた。神農は元は烈山に住んでいて、このことから左氏は烈山氏の子を柱と呼んだ、また厲山氏とも曰われた。《礼記》に、「厲山氏の天下があった」というのはこのことである。神農は奔水氏の聽訞(ちょうはつ)という女性を娶り、妃とした。二人の間に帝魋が生まれる。魋の子は帝承、承の子は帝明、明の子は帝直、直の子は帝氂、氂の子は帝哀、哀の子は帝克、克の子は帝榆である。王として法網を巡らせることおよそ八代、530年にして軒轅氏はここに興隆した(自信が無い)。其の後、州、甫、甘、許、戲、露、齊、紀、怡、向、申、吕というものたちがあるが、それは皆、姜姓の後胤である。ならびに諸侯となったり、また四岳を分掌した。周室が中國を制覇して、甫侯、申伯をして王、賢相とし、齊、許を列して諸侯となしたのはこのことによる。思うに聖人の德澤は廣大なので、ゆえにその子孫の繁栄は長く久しいというのだろう。

 普通の古代の世界に戻って参りました。現代文の方で指摘されている神話っぽすぎるというのは女媧のところかな?やはり。いやまぁ市を作った耕すことを教えたとかも何か色々な世代の色々な業績を仮託されている感はあるけれど流石にジャンプ漫画じゃなくなったからねえ。けれども古代の伝承というのはどこもそういった神話的性質をもっているものだから諦めて採録しても良かった気がする。

 次、いわゆる論賛っぽい部分。

一說三皇,天皇、地皇、人皇為三皇。既是開闢之初,君臣之始,圖緯所載,不可全棄,故兼序之。天地初立,有天皇氏,十二頭。澹泊無所施為,而民俗自化。木德王,歲起攝提。兄弟十二人,立各一萬八千歲。地皇十一頭,火德王,姓十一人。興於熊耳、龍門等山,亦合萬八千歲。人皇九頭,乘雲車駕六羽,出吞口。兄弟九人,分長九州,各立城邑,凡一百五十世,合四萬五千六百年。

自人皇已後,有五龍氏、燧人氏、大庭氏、柏皇氏、中央氏、卷須氏、栗陸氏、驪連氏、赫胥氏、尊盧氏、渾沌氏、昊英氏、有巢氏、朱襄氏、葛天氏、陰康氏、無懷氏。斯葢三皇以來,有天地者之號,但載籍不紀,莫知姓、王、年代、所都之處。而《韓詩》以為自古封太山、禪梁甫者,萬有餘家,仲尼觀之不能盡識。《管子》亦曰:「古封太山七十二家,夷吾所識十有五焉。」首有無懷氏,然則無懷之前天皇已後,年紀悠邈,皇王何升而告?但古書亡矣,不可備𢘻,豈得謂無帝王耶?故《春秋緯》稱,自開闢,至於獲麟,凡三百二十七萬六千歲,分為十紀,凡世七萬六百年。一曰九頭紀,二曰五龍紀,三曰攝提紀,四曰合雒紀,五曰連通紀,六曰序命紀,七曰循飛紀,八曰因提紀,九曰禪通紀,十曰疏迄紀。當黃帝時,制九紀之間,是以錄於此補紀之也。

 一說に三皇は,天皇、地皇、人皇をして三皇となす。既に是開闢之初め,君臣之始めなりと,圖緯に載る所であり,全て棄つるべからず,故に序に之を兼ねる。天地の立った初め,天皇氏があった,十二の頭(かしら)なり。澹泊[1]にして為に施す所無し,而して民俗は自ら化せり。木德の王なり,歲は提攝の起(はじ)め。兄弟は十二人,立ちて各(おのおの)一萬八千歲なり。地皇は十一の頭なり,火德の王なり,姓は十一人。熊耳、龍門等の山に於て興る,亦た合わせて萬八千歲なり。人皇は九の頭なり,雲に乘り車駕は六羽なり,吞口より出ず。兄弟は九人,分けて九州を長む,各(おのおの)城邑を立て,凡そ一百五十世,合わせて四萬五千六百年なり。

 人皇より已後,五龍氏、燧人氏、大庭氏、柏皇氏、中央氏、卷須氏、栗陸氏、驪連氏、赫胥氏、尊盧氏、渾沌氏、昊英氏、有巢氏、朱襄氏、葛天氏、陰康氏、無懷氏有り。斯(ここ)に葢し三皇以來,天地に有る者之號なるも,但だ籍が載りて紀(しる)されず,姓、王、年代、都之處(す)えたる所を知るもの莫からん。而して《韓詩》以為(おもえらく)古(いにしえ)より太山に封じ、梁甫に禪りたる者[2],萬有餘家なり,仲尼之を觀るも盡く識ること能わず。《管子》亦た曰ふ:「古に太山に封じた七十二家の,夷吾の識る所は十有五焉(か)。」首めに無懷氏有り,然れども則ち無懷之前より天皇已後,年紀は悠邈[3]なり,皇王は何を升りて告げんや?但だ古書は亡く,𢘻[4]く備へるべからず,豈に帝王無きと謂ふことを得よう耶?故に《春秋緯》は稱す,開闢より,獲麟[5]に至るに,凡そ三百二十七萬六千歲,分けて十紀と為す,凡そ世は七萬六百年。一に九頭紀曰ひ,二に五龍紀と曰ひ,三に攝提紀と曰ひ,四に合雒紀と曰ひ,五に連通紀と曰ひ,六に序命紀と曰ひ,七に循飛紀と曰ひ,八に因提紀と曰ひ,九に禪通紀と曰ひ,十に疏迄紀と曰ふ。當に黃帝時,九紀之間を制し,是(これ)に録を以て此れを補うべきにして之を紀す也

 [1]こころがあっさりして無欲なさま、さっぱりとして手軽なさま。

 [2]泰山に天を封じ(まつる)、梁甫に地を禪る(まつる)を、封禅というらしいです。

 [3]載ってないけど「はるか」の意の言葉が続いているので「悠久」みたいな感じの意味だと思われる。

 [4]ググったら𢘻 - 中国哲学书电子化计划に「《正字通》同悉。」とあった。悉くでいいらしい。

 [5]孔子の記した『春秋』の最後の段のこと。

 一說に三皇は,天皇、地皇、人皇を三皇という。これが既に開闢の初めであり,君臣の始めであると,圖緯に載っているので,全て棄ててしまうことはできない,故に序文としてこれを兼ねる。天地の立った初め,天皇氏があった,十二の頭目なり。さっぱりとしていて特に変えるべきようなところはなかった,だから習俗はおのずから治まった。木德の王で,歲は提攝のはじめであった。兄弟は十二人おり,即位して各(おのおの)18000歳であった。地皇は十一の頭目である,火德の王である,姓は十一人。熊耳、龍門等の山で興隆した,また合わせて18000歳なり。人皇は九の頭目である,雲に乗り車駕は六羽居た,吞口より出てきた。兄弟は九人,九州を分けて長となった,各(おのおの)城邑を立て,凡そ150世代,合わせて45600年なり。

 人皇より以後,五龍氏、燧人氏、大庭氏、柏皇氏、中央氏、卷須氏、栗陸氏、驪連氏、赫胥氏、尊盧氏、渾沌氏、昊英氏、有巢氏、朱襄氏、葛天氏、陰康氏、無懷氏というものがいた。これは三皇以来,天地に有る者の名前であるが,ただ籍がのるばかりで記録がなく,姓、王、年代、そして都としたところも知るものはいない。だから《韓詩》には古きより封禅したものは,1万家以上あると思われるが,孔子でもこれをすべて知ることはできなかったとある。《管子》もまたいう「古くに太山に封じた72家のうち,私が知っているのは15家くらいである。」はじめに無懷氏があるが、しかし無懷の前から天皇以後まで,年紀は遙か遠く,皇王は何を上って告げたのだろうか?ただ古書は既に散佚し,全てを備えることはできないが,だからといって帝王がいないということができるだろうか?と。だから《春秋緯》はこういった,「開闢より,孔子が春秋を書き終えるに至るまで,およそ3276000歲,分けて10紀とする,およそ世代は70600年。一紀目は九頭紀といい,二は五龍紀といい,三は攝提紀といい,四は合雒紀といい,五は連通紀といい,六は序命紀といい,七は循飛紀といい,八は因提紀といい,九は禪通紀といい,十は疏迄紀という。まさに黃帝の時,九紀の間を制した記録によってこの問題を補うべきなのでこれをしるす。

 今までで一番訳が分かりませんでした(半ギレ)

 間違いまくってそうだけど、そもそも訳した意味すらなさそうなんですがこれは良いんですかねぇ。そら史記の序文としては認められないわ。あと最後「これこれこれ」で「どれだよ!」ってなった。お年寄り並に指示語増えすぎだ。

 ただこれ讖緯が混ざってるのね。いや、司馬貞が混ぜたのか、それとも混ざったテキストを採録してしまったのか。

 伏羲のところと神農のところは純粋に楽しかった。

 次は『後漢書』「光武帝紀 第一上」ですね。

 

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:三皇本紀 - 维基文库,自由的图书馆