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渡来人、読文学。

中国史や野球、マンガや小説、アニメなどの感想についてのブログです。

後漢やその他の歴史と曲筆について。

 うーん、なんか勘違いされている方が多いような気がするんですけれど、集史編纂事業と曲筆というのは、当然漢初の楚漢戦争問題においても存在するし(やる夫スレの私談・楚漢戦争の方も指摘されていた『楚漢春秋』の資料的問題もありますが)、唐王朝以後に至っては当然とでもいうべき事柄であって、それがこれまでは正史という概念の問題として、これまで描かれてきて、そのせいで集史編纂事業を大々的に行った李世民の罪としてピックアップされがちだった訳ですけれども、集纂事業自体が蘭台と東観の研究によってもっと時代を遡ることが出来ることになったのが顕著な発見であったのであって、それを劉秀の罪とするのは、李世民の罪とするのと全く同じ問題を孕んでいると思うんですよね。例えば『史通』における『後漢書』そのほかの曲筆問題というのも、実は純粋に例の一つとして挙げている訳です。

 

歴史的位置づけとしては、

★官吏登用方における

賢良・方正→郷挙里選→(孝廉の重視と課試制)→九品官人法→(州大中正による門閥貴族化)→科挙→(殿試による判断基準の強化)→等々

にあたるのが

★歴史編纂事業における

焚書・坑儒→史官による王朝史編纂事業→(前漢末の讖緯収集の合流)→蘭台・東観における修史→晋による野史の正史認定→(六朝の正史編纂競争)→王朝による正史編纂事業→等々

 

なのであって、歴史上のエスカレートする一部分に過ぎないんですよ。例えばこの以前にも官吏登用法に関して言えば任子制であるとか、歴史の集纂事業においては崔杼と史官の話もあった訳ですがそれはとりあえず脇に置きます。

 そもそも現行版本の大元となった李賢注『後漢書』は『史通』の後にでており、おそらくはその言論空間にあった史料批判の空気を引き継ぐものであると考えております。李賢注『後漢書』の評価も決して低くはないものです。何故なら「前四史」と言われ、儒教三国においてはこの四書を非常に重視してきた歴史があり、また我が国に建武政権があるように、中興の文脈では引用を見つけることが出来るものであります。そして疑古学と考証学の発達した清において、主流学者の一人といえる王夫之や康有為の評価を受けており、また唐初までは光武は色々なところで引用されています。故に、そもそも儒教官僚の評価を受けなかったという某信者サイトや在野の信者によって設定された命題そのものが間違っていると考えて居るのです。単純な史上最上位格の名君の文脈としてはロールモデルとして上位となる人間が出てきたため、引用頻度が減ったり、また政情が中興に合うものであれば、引用頻度が増えるようになった、ただそれだけなのです。儒教官僚は、その大義名分の類別に非常に敏感で在り、光武を引用しようものならまず中興か創業かで一悶着あります。引き継いだものか一からかでも一悶着在ります。他の問題に援用しづらいのです。正論は正しい意味を掌握したうえで述べないとまず形而上学的な話で一悶着が出てしまう、それが儒教官僚の「正義(正しい意味)」です。

 結局の所、劉秀神格化問題で『後漢書』および『東観漢記』の曲筆についてクローズアップされたのは単に某信者サイトや在野の信者がそれについて余計な個別に「特別化」しようとして言い訳をしてしまったからなんですよね。あのサイトが言い訳してしまったことというのは、反劉秀思潮においても何故か完全に主軸になってしまっているんですが、実はどれも単純に歴史上の段階における議論なんですよね。どこからが中世でどこからが近世かみたいな話題と全く同じなんです、本来は。

 それなのに劉秀信者もアンチ劉秀信者も何故かあのサイトや在野の劉秀信者が勝手に個別に取り上げてしまったことを軸としていってしまっている。これは豪族連合政権問題もそうですが、王莽が抑えきれず、光武が妥協し、曹操が取り込んだ豪族連合政権の後には当然のことながらもっとそれが進行した南北朝の門閥貴族制というのが来ますし、後漢から南北朝に至るまでで何故か家内奴隷とか庸人が成り上がる話をよく見るのは、ローマの氏族制貴族型奴隷制と一緒で、ある種の貴族制下の奴隷制度に見られる貴族制特有の有り様です。簡単に言えば、権門にとって、よその氏族よりも自氏族の影響下にある奴婢の方が個人的紐帯があって信用がおけるんですね。例えば『後漢書』にある李続を助けた李家の奴隷が李氏を受け継いで李善と名乗る流れなんかは、もの凄くローマでよくいわれる奴隷制の有り様に似ています。辟召制度もパトロネスとクリエンテスの関係に類似性を見いだせますし、そういった個人間のコネクションによる取り立て合いの談合に対し、皇帝権力側があらがおうと隋唐型の科挙門閥貴族制を経て、北宋の殿試である程度それが改善されて、明清に至ってようやく一時は西洋に模範とも言われたマンダリンという官僚制度が完成していくわけです。事実上は個人の功績でもなければ過失でもない流れな訳です。

 そして実はその間も常に在野のコネクションと皇帝権力のための人材という概念の相克は続いていますし、くぐり抜けようと様々な不正が考えだされた訳です。今の日本でも似たような問題というのはあるでしょう。私自身、親がとある企業の創業者であるお陰で、「不肖の息子」そのものにも関わらず、めちゃめちゃ優遇されてますし、鬱の療養まで面倒みてもらってますしね。ある種の「豪族」、金持ちやコネクションを持つ者が得をしてしまう社会の問題が解決した社会がこの世に存在した訳では決してないわけです。それなのに反論してしまったあのサイトが根本的におかしいんであって、反劉秀思潮というものでの問題は今のところそこに依拠しがちであること自体に大きな問題を抱えているように思います。根源に現代日本人が無自覚に抱える反資本家的価値観を持っているものが、反マルクス史観を掲げてしまったことの問題であるというか。

 では何故、その言い訳が主軸になってしまったのかというと、多分その某信者サイトも、アンチも含めて、人間を歴史的な位置づけの中で捉えていないんですね。そうなった理由は光武帝信者の側が、限られた時代の事だけひとつかみしてしまった事と、それを基に多方面の文学経由で中国史に入ってきたファンに喧嘩を売ったからな訳です。というか、おそらく布教をうけた中でマウンティングに丁度よかったという人も中には居たんでしょうね。或いは人口の多い三国時代の話題における曹操信者と蜀信者辺りの抗争に巻き込まれた側面もあったのでしょう。それらの結果、彼ら信者の言い訳経由でしか歴史の構造という面での歴史議論を知らない人がアンチになるということが生じた訳です。ところが今の時代、よく言われているように、分野の細分化によって、宮崎市定先生のような全時代的に状況を把握している中国史全体の専門家というような人は誰一人としていない。どちらも知識としてはソースとして信者サイトに載っている論文等から引用してくることになる。これでおかしな議論にならない方が無理というものでしょう。

 しかし、信者の「これは光武帝が初めてやったことだ!」をひっくり返して「功績の多くは神格化で臣下や他人の功績の吸収なのだ」みたいにしてしまったら、逆に君主権力の低いはずの豪族連合政権時代に、何故かとんでもない情報統制能力と、功績という既得権益を主張するはずの豪族達への超強力な統制能力をもった劉秀という怪物が生まれてしまうだけであって、信者とやってることが何も変わらないんですよねこれ。だって洪武帝の錦衣衛みたいな存在は劉秀はついぞ持てていない訳で、後漢は当然、皇帝専制を完成させた明でもない。歴史をとんでもなく進行させてしまっている。何故気付かないのか。信者もアンチも言ってる事が逆ならまだ理解できるんですよ?「豪族を統制できてないから歴史に残った事も真実だし人格が良い」とか、「前漢でも王莽でも統制できなかった豪族への完全な統制に基づく情報改竄、恐怖政治を強いた人間だから史上類を見ない程とんでもなく能力が高い代わりに人格は最悪だ」とか。それならまだ筋は通っている訳ですが……

 私の独断を披瀝するのであれば、理性的に見れば彼のやった事象の一部は暴君としての素養がありますし、チートでもなんでもないある程度は合理的に説明できる範疇なので、名君としては単純に上位互換である李世民趙匡胤が出たときに最上位のロールモデルとしての寿命を終えたものと思われます。ちなみに趙匡胤ロールモデルとしての寿命を終えて、唐宗宋祖と言っていた場所を、唐宗明祖に置き換えられることもあるようです。

 私がそこに入り込んでニュートラルにしたい、中庸にしたいというのは、史学家でもない私でありますから、歴史学における構造主義の位置づけをよく知りもせずに英雄主義から構造主義への転換を図りたいとまではいいませんが、歴史の事象を個人の人格や能力に帰するなどして神格化と卑俗化という同一軸の「特別化」抗争を続けている人たちに「君たち何言ってんの」感というのもあってちょっとなんだかなぁ……という所感をもってしまうわけであります。

 なので、このブログや様々な手段を使って、過大評価部分を訂正していきたいなぁとは思っております。

(16/11/18)

(16/11/19加筆修正)

(16/11/20構成変更、微加筆)