渡来人、読文学。

中国史や野球、マンガや小説、アニメなどの感想についてのブログです。

二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 第4段落&第5段落

●第4段落&第5段落

この段落別にする必要ないじゃんと思ったので纏めてみた。

副題は、『曹操は誰だ?』

 

更始元年正月甲子朔,漢軍復與甄阜、梁丘賜戰於沘水西,大破之,斬阜、賜。〈沘水在今唐州沘陽縣南。廬江灊縣亦有沘水,與此別也。沘音比。〉伯升又破王莽納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳茂於淯陽,〈《前書》曰,納言,虞官也,掌出納王命,所謂喉舌之官也,歷秦、漢不置,王莽改大司農為之。桓譚新論云莊尤字伯石,此言「嚴」,避明帝諱也。秩宗,虞官也,掌郊廟之事,周謂之宗伯,秦、漢不置,王莽改太常為秩宗,後又典兵,故納言、秩宗皆有將軍號也。淯陽,縣,屬南郡,故城在今鄧州南陽縣南,在淯水之陽。淯音育。〉進圍宛城。

二月辛巳,立劉聖公為天子,以伯升為大司徒,光武為太常偏將軍。〈《前書》曰:「奉常,秦官。景帝更名太常。」應劭漢官儀曰:「欲令國家盛大,社稷常存,故稱太常。」老子曰:「偏將軍處左,上將軍處右。」《東觀記》曰:「時無印,得定武侯家丞印,佩之入朝。」〉

 更始元年が正月は甲子朔,漢軍は復た甄阜、梁丘賜と沘水の西に戰ふ,之を大いに破る,阜、賜を斬る。〈沘水は今の唐州沘陽の南。廬江灊縣に亦た沘水有り,此とは別也。沘の音は比。〉伯升は王莽の納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳茂を淯陽に破る,〈《前書》に曰ふ,納言は,虞の官也,王命を出納するを掌る,所謂喉舌之官也,秦、漢を歴て置かず,王莽は大司農を改め之と為す。桓譚新論に莊尤字伯石と云ふ,此の「嚴」と言ふは,明帝の諱を避くる也。秩宗は,虞の官也,郊廟之事を掌る,周は之を宗伯と謂ふ,秦、漢は置かず,王莽は太常を改めて秩宗と為す,後に又た兵も典る,故に納言、秩宗は皆將軍號が有る也。淯陽は,縣なり,南郡に屬す,故城は今の鄧州南陽縣の南に在り,淯水之陽在り。淯の音は育。〉進みて宛城を圍む。

 二月の辛巳,劉聖公を立てて天子と為す,伯升以て大司徒と為す,光武を以て太常偏將軍と為す。〈《前書》に曰ふ:「奉常は,秦の官。景帝は太常と名を更めた。」應劭の漢官儀に曰ふ:「國家を盛大とせしめんと欲し,社稷を常に存(たも)つ,故に太常と稱す。」老子曰く:「偏將軍は左に處し,上將軍は右に處する。」《東觀記》に曰ふ:「時に印は無く,定武侯家の丞の印を得,之を佩びて入朝す。」〉

 更始元年の正月の甲子朔に,漢軍はまた甄阜、梁丘賜と沘水の西に戦い,これを大いに破り,二人を斬った。〈沘水は今の唐州沘陽の南。廬江潜県にまた沘水があるが,これとは別である。沘の音は比。〉伯升は王莽の納言将軍厳尤、秩宗将軍陳茂を淯陽に破る,〈《前書》にいう,納言は,虞の官である,王の命令の出し入れをつかさどる,所謂喉舌の官である,秦、漢をへても置かれなかったが,王莽は大司農を改めてこれとした。桓譚新論に莊尤の字は伯石とある,この「厳」というのは,明帝の諱を避けているのだ。秩宗は,虞の官である,郊廟の事をつかさどる,周はこれを宗伯といったが,秦、漢は置かず,王莽は太常を改めて秩宗とした,後に兵も率いることとなった,故に納言、秩宗には皆將軍号が有るのだ。淯陽は,県である,南郡に属している,故城は今の鄧州南陽縣の南にあって,淯水の陽にある。淯の音は育。〉進撃して宛城を囲んだ。

 二月の辛巳,劉聖公を立てて天子とした,伯升を大司徒とした,光武を太常偏將軍とした。〈《前書》にいう:「奉常は,秦の官。景帝は太常と名をあらためた。」應劭の漢官儀にいう:「國家を盛大にしたいと望み,社稷を常に保つ,故に太常と称す。」老子曰く:「偏將軍は左において,上將軍は右におく。」《東觀記》にいう:「その時印が無かったので,定武侯家の丞の印を得て,これを帯びて入朝した。」〉

 

 こう見ると荘尤と陳茂、南陽担当なんだな本来。そう考えてくると昆陽の時の発言の意味が全然変わってくるというか、「アパム!!、弾持ってこいアパーム!!!」(※1)みたいなもんだよね。(背景で勝ったり負けたりしていく某2名を徹底的に無視して行くスタイル。しょうが無いね、少なくとも現状は彼らは今のままの解釈以上の事出来ないしね)

 内面はどうか知らんが、これ、やっぱり劉秀は劉縯とともに立ったと見なされていない気がするな。どうにも官職が不釣り合いだ。劉秀は劉良から独立していないというニュアンスが先に立っている気がする。もし、仮に太学を出ていない劉終の業務上の補佐を目的として太学を出た劉秀を付ける(何しろ、太常は礼制の官である)のであれば、そのまま劉秀が太常でも良かったはずだ。実際その視点から多くの文献では太常・偏将軍と訳されるのだろう。兄は大司徒、弟は九卿という事を恐れるなら、他の部分の人事でバランスを取れば良い。ポストは残り十もあるわけだから。

 よく読んでみると、劉縯と劉秀は少なくとも表面上、遠い気がする。劉終の補佐でずっと動き続けている。舂陵侯家筋の腹心として動いているのは間違いないし、舂陵侯家は南陽劉氏の本家筋に当たる。もし、あの集団に劉氏復古の意図が最初からあった場合に、皇帝として担がれるべき人間が居るとすれば、まずは彼のはずだ。劉縯劉玄の二択が自明とされているのは何故だろうか。おそらく、実力が主導であったのではないか?そして、劉秀の位置づけはまるで献帝に対する尚書令荀彧のようだ。そして劉秀が荀彧だとすれば、曹操は一体、誰だ。

 

 劉秀が挙兵以前の詐称として江夏卒史を名乗り収監されたエピソードといい、もしかして、劉玄の可能性もあるんじゃないだろうか。

 

(※1)そろそろこれを知らない世代がネットでこういう趣味に手を出してるんじゃないかという老若二重の恐怖を抱きつつ注記すると、『プライベート・ライアン』という戦争映画のネタです。

(16/11/29 19:35 初稿)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆