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劉玄と劉秀

●前回記事の補足及び再考

今日上げた「二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 第4段落&第5段落

副題『曹操は誰だ?』の補足及び再考となります。

 

 

 もし劉秀が劉縯の荀彧である可能性、というのは、劉縯が皇帝レースに参加していることが当時自明である場合だけだろう。自明でなく、劉玄との繋がりもなければ当時はただ劉終の驥尾に付していた事になり、やはり劉縯とは疎遠に見える。そもそも、劉縯は劉良の元で扶育されていた記述がない。

 劉玄がもとより劉秀との繋がりの方が深かったか、或いは李軼の劉縯告発が劉秀によるものなら、劉縯の誅殺と劉秀の序列が狂った急な重用もバランスが取れる。劉縯死後の劉秀の重用はトントン拍子過ぎる。劉秀像はやはり何か自分の中では表裏比興か笑裏蔵刀といった感じの謀臣感がある。

 

 何故か河北に官位だけ与えて見捨てた事にされがちであるが、そもそもの河北平定戦において、劉玄は劉秀を継続して支援している。劉秀は説得が失敗し、命が助かった時点では(河川を経由してか)長安に帰ろうとしているし、謝躬ら援軍も送られている。

 河北戦はそもそも、劉玄が劉秀に持節行大司馬事を与えて、賊に参加していない既存の河北諸軍を督察せしめ、治安の回復を目指すところに主眼があったと見られるが、劉玄らよりも圧倒的に良血であった諸劉氏がそれに従わなかったのが発端である。

 

 ここで不可解なのは、劉玄が河北に行かせた事が劉秀を見捨てたのであれば、河北そのものを切り捨てたに等しく、逆に見捨てたのでなく効力があると見ていたのであれば、何故あんな大権を劉秀に与えたのかというところにある。

 もし、河北の諸劉氏が劉秀に従っていれば、劉秀は簡単に圧倒的な権力を得ることは疑い得ない。どこの世界に史実と違い関中河南と帝位を得たのにわざわざ袁紹に河北を与える袁術がいるだろうか。逆に従わない事を分かって送ったのであればなおのこと謎だ、河北の良血劉氏に挙兵の口実をプレゼントしに行くようなものだし、おまけに劉玄が親しからぬ南陽諸将にまで挙兵の口実を与えてしまう。

 劉玄と劉秀の関係は、本来一体どうなっていたんだろう。

 

(16/11/29 21:02初稿)

(16/11/29 21:16前回記事へのリンクを追加)