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二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 第6段落

●第6段落

昆陽の戦いに入って行きます。

 

三月,光武別與諸將徇昆陽、定陵、郾,皆下之。〈徇,略也。昆陽、定陵、郾,皆縣名,並屬潁川郡。昆陽故城在今許州葉縣北。郾,今豫州郾城縣也。定陵故城在今郾城西北。郾音於建反。〉多得牛馬財物,糓數十萬斛,轉以饋宛下。莽聞阜、賜死,漢帝立,大懼,遣大司徒王尋、大司空王邑〈王莽時哀章所獻金匱圖有王尋姓名。王邑,王商子,於莽為從父兄弟也。〉將兵百萬,其甲士四十二萬人,五月,到潁川,復與嚴尤、陳茂合。〈潁川,郡,今洛州陽翟縣也。〉初,光武為舂陵侯家訟逋租於尤,尤見而竒之。〈逋,違也。舂陵侯敞即光武季父也。《東觀記》曰:「為季父故舂陵侯詣大司馬府,訟地皇元年十二月壬寅前租二萬六千斛,芻稾錢若干萬。時宛人朱福亦為舅訟租於尤,尤止車獨與上語,不視福。上歸,戲福曰:『嚴公寧視卿邪?』」〉及是時,城中出降尤者言光武不取財物,但會兵計策。尤笑曰:「是美須眉者邪?何為乃如是!」

三月,光武は諸將と別れ昆陽、定陵、郾を徇り[1],皆之を下す。〈徇は,略也。昆陽、定陵、郾,皆縣名にして,並びに潁川郡に屬し。昆陽は故城は今の許州は葉縣の北に在り。郾は,今の豫州は郾城縣也。定陵の故城は今の郾城の西北に在り。郾の音は於と建の反なり。〉多く牛馬財物を得て,糓は數十萬斛,轉じて以て宛下に饋[2]る。莽は阜、賜が死に,漢帝が立つを聞き,大いに懼れ,大司徒王尋、大司空王邑を遣ひ〈王莽の時哀章が獻ずる所の金匱圖に王尋の姓名有り。王邑は,王商の子なり,莽の從父兄弟為る也。〉兵百萬,其甲士四十二萬人を將はしめ,五月,潁川に到る,復た嚴尤、陳茂と合す。〈潁川は,郡なり,今の洛州陽翟縣也。〉初め,光武は舂陵侯家の逋租[3]を尤に訟へ,尤は見て之を竒とす。〈逋は,違也。舂陵侯敞は即ち光武季父也。《東觀記》に曰ふ:「季父が為に舂陵侯を故に大司馬府を詣で,地皇元年、十二月壬寅、前に租は二萬六千斛,芻稾[4]の錢は若干萬なり。時の宛の人朱福は亦た舅が為に租を尤に訟ふ,尤は車を止め獨り上と語る,福を視ず。上歸りて,戲れて福に曰ふ:『嚴公寧んぞ卿を視ん邪?』」〉及ち是の時,城中の出降せる者が尤に光武は財物を取らず,但だ兵に會ひて策を計ると言う。尤は笑ひて曰く:「是は須眉の美しき者なる邪?何ぞ乃ち是の如く為さん!」

 

[1]めぐり

[2]食物や物品を送る

[3]未納の租税

[4]漢語網に干し草の意とあった。 

 

三月,光武は諸将と別れ昆陽、定陵、郾を攻略する。〈徇は,略である。昆陽、定陵、郾,皆県名であり,潁川郡に属している。昆陽は故城は今の許州は葉県の北に在り。郾は,今の豫州の郾城県である。定陵の故城は今の郾城の西北に在り。郾の音は於と建の反切である。〉多く牛馬や財物を得て,兵糧は数十万斛,宛城下の攻略軍に輸送する。王莽は甄阜、梁丘賜が死に,漢の皇帝が即位したことを聞き,大いにおそれて,大司徒王尋、大司空王邑を送り出し〈王莽の時哀章が献じた『金匱圖』に王尋の姓名があった。王邑は,王商の子だった,王莽の從父兄弟である。〉兵百万,そのうち鎧を着た兵士四十二万人もの軍を率いさせて,五月,潁川に到る,また厳尤、陳茂と合流した。〈潁川は,郡である,今の洛州陽翟県である。〉初め,光武は舂陵侯家の未納の租税についてを厳尤に訴え出て,厳尤はこれは珍しい才能であるとした。〈逋は,違である。舂陵侯敞はつまり光武の季父である。《東觀記》にいう:「季父のために舂陵侯を理由に大司馬府を詣でて,地皇元年、十二月壬寅に、前の税金は二万六千斛,干し草のお金は一万少しでしたと訴えた。その時宛の人朱祜もまた舅の為に税について荘尤に訴え出たが,荘尤は車を止め劉秀と語っただけで,朱祜のことはみなかった。劉秀は帰って,冗談で朱祜に『荘公は君のことをみたかい?』と言った」〉このとき、城中から降服してきたものが、荘尤に、光武は財物を取らず、兵に会って策を計っているといった。尤は笑って言った「それは眉と口ひげの美しい奴だろう?なんでそんなことをやっているんだ?」

 

 劉伯姫はこの時、「流石お兄様」と語ったとか(違) 送り仮名は自信ないや。

 軍市令置いたのは祭遵登用後、正規の将軍号を得てからだろうから、多分ある程度は略奪して財物を得たか、有力者の方と「お話し」て快い提供()を受けたんだなぁと思います。

 冗談はともかくとして、後々も豪族からは協力を得られているように思うし、畏れても居るようにみえるから、昆陽戦(及び潁川の攻略)において劉秀は数は胡散臭いにせよ、恐らくは結構な戦果があったのだろう。じゃないとこの後劉秀が実務側に残った理由が本当に訳が分からない。

 今思ったけど、この時代にナントカ大将軍が多いの、賓客及び部曲をそのまま転じてるから、衛青、霍去病の有職故実から個々に将軍府を置いている体制なんだろうかもしかして。この当時の「客」にはまだ前漢や戦国以前の風が残ってそうではあるし、将軍の軍府の有り様って豪族のコングロマリット的性質がそのまま転化した形になりそうだし、個々で将軍府を置ける方が色々都合が良さそうなんだよね。

 そもそも軍市令を置くのも衛青、霍去病の頃の有職故実のはずであるし、各軍が将軍府を備えてるのかな?具体的な職責のあるもの(大将軍や前後左右将軍や楼船将軍など)以外の将軍号というもののなりたちって武帝の頃の故実からこの時代にかけてでまだ成立途上だよね?莽新特有の官職+将軍号や、雑号将軍も含めてどうなんだろう?

 

 劉秀と朱祜の関係については、嫌みになりかねんジョークやけどええんか。と思ったけど、劉秀と朱祜は実際どのエピソードを見てもちょっと距離感が近すぎるのよな。気のおけない友という奴だったのだろう。現代人の多くには居なさそう(偏見)。道民的にいうと、「おめーにゃ無理だべさー」とかいってちょっと洒落にならないラインまで遠慮無い爺さん達みたいな感じのノリ。ぶっちゃけ田舎の農家だからねぇこいつら。開拓からの年代的距離感からして北海道の農家がそのまんまな気がする。JAにインターンで行ったがあの人達本当に遠慮無いからな。どこの農家もそうかも知れんが、自主自立していながらも妙に社会が狭くて、若者に頼られたりするとクッソ優しいけど、同時に遠慮もクソもないし、わりかし本音で面罵するのもかなり自由にやりやがる。体育会系とはまた異なった謎の気安さ。

 

 そういえば荘尤はなんで「あいつ、どうしてそんなことをやってるんだ?」って笑うんだろう。嘲笑ならそう書く気がするんだが、ただどう裏面を読み解こうとしても嘲笑になってしまう。そう書かれてないものを補ってしまうのは、先入観が印象を左右してしまうから、ちょっと方針に反するんだが……個人的に劉秀が王莽ないし誰かの寵童だったんじゃないかってのは、ここの不自然さからなんだよね。風采が美しい事が笑われるというのは、やはりそういった背景がある気がする。逆に容姿に恵まれなかったのでは、とも想像したが、そうなると筆法としては曹操の件のように「書かない自由」を行使するのが自然であるように思うし。笑いに他意がないとすれば、言い方がなんか妙に仲でも良かったのか、身内の話題に出てくるタイプの人士なのかと勘ぐりたくなるが……どうなんだろうね。

 あ、現代語に訳してて気付いた、これ劉秀個人を「そいつのことは知ってるわ」って笑ってるんじゃなくて、劉秀が行っている行動を笑った、前段とちゃんとくっついた笑いなんだ。やっぱ私もかなり色んな所で見た光武像や先入観抜けてないところあるかもなぁ。荘尤は兵士に会って策を考える劉秀に「おかしなことをしているなあいつ」と思ったんだ、でもやっぱり結局若干嘲笑のニュアンス入っているなぁ。これ、もしかしてちょっと飾った形だけど兵士に法を説明して~みたいなニュアンスの賛辞が入ってる将軍の伝記の逸話と同じアレなのかな?ってことはこの記述の大元の『東観漢記』含め、実は婉曲に荘尤を兵法を知らない者として描いている?実際分析してて王邑の方針の方が堅実であると語ったことがあるけど、そうだとすると結構王邑に対する弁護も入ってるんだろうか?

(16/11/30 18:36 初稿)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆