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二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 第7段落

●第7段落

昆陽の戦い、中盤戦・上

 

初,王莽徵天下能為兵法者六十三家數百人,並以為軍吏;選練武衞,招募猛士,〈《說文》曰:「募,廣求之也。」〉旌旗輜重,千里不絕。〈《周禮》曰:「析羽為旌,熊虎為旗。」輜,車名。釋名曰:「輜,廁也。謂軍糧什物雜廁載之。以其累重,故稱輜重。」重音直用反。〉時有長人巨無霸,〈王莽連率韓博上言:「有竒士,長一丈,大十圍,自謂巨無霸,出於蓬萊東南五城西北,詔如海濵,軺車不能載,三馬不能勝,卧則枕鼓,以鐵箸食。」見《前書》。〉長一丈,大十圍,以為壘尉;〈鄭玄注周禮云:「軍壁曰壘。」崔瑗中壘校尉箴曰:「堂堂黃帝,設為壘壁。」尉者主壘壁之事。〉又驅諸猛獸〈「猛」或作「獷」。獷,猛貌也,音古猛反。〉虎豹犀象之屬,以助威武。自秦、漢出師之盛,未甞有也。光武將數千兵,徼之於陽關。〈聚名也。酈元水經注曰:「潁水東南經陽關聚,聚夾潁水相對。」在今洛州陽翟縣西北。〉諸將見尋、邑兵盛,反走,馳入昆陽,皆惶怖,憂念妻孥,〈孥,子也。〉欲散歸諸城。光武議曰:「今兵糓旣少,而外寇彊大,并力禦之,功庶可立;如欲分散,勢無俱全。且宛城未拔,〈謂伯升圍之未拔也。〉不能相救,昆陽即破,一日之閒,諸部亦滅矣。今不同心膽共舉功名,反欲守妻子財物邪?」諸將怒曰:「劉將軍何敢如是!」光武笑而起。會候騎還,言大兵且至城北,軍陳數百里,不見其後。諸將遽相謂曰:「更請劉將軍計之。」光武復為圖畫成敗。諸將憂迫,皆曰「諾」。時城中唯有八九千人,光武乃使成國上公王鳳、廷尉大將軍王常留守,夜自與驃騎大將軍宗佻、〈驃騎大將軍,武帝置,自霍去病始。佻音太堯反。〉五威將軍李軼等十三騎,〈王莽置五威將軍,其衣服依五方之色,以威天下。李軼初起,猶假以為號。〉出城南門,於外收兵。時莽軍到城下者且十萬,光武幾不得出。〈幾音祈。〉旣至郾、定陵,悉發諸營兵,而諸將貪惜財貨,欲分留守之。光武曰:「今若破敵,珍珤萬倍,〈珤,古「寶」字。〉大功可成;如為所敗,首領無餘,何財物之有!」衆乃從。

 初め,王莽天下から能く兵法を為す者六十三家數百人を徴し,並びに以為らく軍吏をして;練武せる衞を選し,猛士を招募せんと,〈《說文》に曰ふ:「募るとは,廣く之を求む也。」〉旌旗と輜重,千里は絕へず。〈《周禮》に曰ふ:「析羽を旌と為し,熊虎を旗と為せり。」輜は,車名なり。釋名に曰ふ:「輜は,廁[1]也。軍糧什物を雜廁[2]して之を載せるを謂ふなり。其の累を重ぬるを以て,故に輜重と稱す。」重の音は直用の反なり。〉時に長人巨無霸有り,〈王莽の連率韓博上言す:「竒士有り,一丈より長く,十圍より大なり,自ら巨無霸と謂ふ,蓬萊の東南五城の西北より出づ,詔[3]げることは海濵[4]の如し,軺[5]車載せること能わず,三馬勝ること能わず,卧して則ち鼓に枕す,鐵箸を以て食す。」《前書》に見ゆ。〉一丈より長く,十圍より大なり,以て壘尉と為す;〈鄭玄注の周禮に云ふ:「軍壁を壘と曰ふ。」崔瑗の中壘校尉の箴に曰ふ:「黃帝堂々と,設へて壘壁と為す。」尉なる者、壘壁之事を主る。〉又た諸猛獸を驅し〈「猛」は或ひは「獷」に作る。獷は,猛貌也,音は古猛の反なり。〉虎豹犀象之屬,以て威武を助く。秦、漢出師之盛より,未だ甞て有らざらん也。光武は數千の兵を將ひ,陽關に於て之を徼[6](さえぎ)る。〈聚名也。酈元の水經注に曰ふ:「潁水の東南に陽關聚を經る,聚は潁水を夾み相對す。」今の洛州陽翟縣の西北に在り。〉諸將尋、邑の兵の盛を見るに,反走して,昆陽に馳せ入り,皆惶怖せり,憂ひて妻孥を念ふ,〈孥,子也。〉諸城に散りて歸らんと欲す。光武は議して曰ふ:「今兵糓は旣に少なく,而外寇は彊大なり,力を并べ之を禦がん,庶(もろもろ)[7]の功(はたら)き[8]により立つ可し;分散を欲するが如きは,勢い俱に全うすること無し。且に宛城は拔かざらんとし,〈伯升の之を圍ふも未だ拔かざるを謂ふ也。〉相救ふこと能わず,昆陽が即ち破れ,一日之閒かば,諸部は亦た滅ばん矣(かな)。今は心膽[9]同じからざるも共に功名を舉ぐるに,反して妻子財物を守るを欲する邪?」諸將怒りて曰ふ:「劉將軍は何ぞ敢へて是の如くあらん!」光武笑ひ而起ち。候騎の還に會す,大兵は且に城北に至らんとし,軍は數百里を陳し,其の後ろは見えず。諸將遽に相ひ謂ひて曰ふ:「更めて劉將軍の之を計るを請ふ。」光武復た圖畫に成敗を為す。諸將は迫るを憂ひ,皆曰ふ「諾」と。時の城中には唯だ八九千人有るのみ,光武乃ち成國上公王鳳、廷尉大將軍王常に留守せしめ,夜自ら驃騎大將軍宗佻、〈驃騎大將軍,武帝が置く,霍去病より始む。佻の音は太堯の反なり。〉五威將軍李軼等十三騎とともに,〈王莽は五威將軍を置く,其の衣服は五方之色に依る,天下に威を以てす。李軼初め起ちて,猶ほ以為らく號を假りんがごとし。〉城南の門を出ず,外に於ては兵を収め。時の莽軍は城下に到る者且に十萬,幾ら光武といへ出づるを得ざらんとす。〈幾音祈。〉旣に郾、定陵に到り,悉く諸營の兵を發するも,而し諸將は財貨を貪り惜しまん,分けて之を留守せるを欲す。光武は曰ふ:「今若し敵を破らば,珍珤は萬倍し,〈珤は,古の「寶」の字なり。〉大功成る可し;敗るる所為すが如くし,首[10]せば領[11]めること餘り無からん,何ぞ財物之有らんや!」衆は乃ち從ふ。

[1]かわや、まじる、まじえる

[2]「ざっし」いりまじる

[3]告げる、上から下に告げる、みことのり

[4]浜の異体字

[5]一頭または二頭立ての馬車、展望車

[6]防ぐ、さえぎる、邀撃する

[7]もろもろ

[8]はたらき

[9]心胆、きもったま

[10]自首、降服、罪の自白

[11]手に入れる、掌管する

 初め,王莽は天下からよく兵法を仕えるもの六十三家数百人を召し上げ,また軍吏に武を練り上げた衛士を選び,猛士を招募しようとした,〈《說文》にいう:「募るとは,広くこれをもとめることである。」〉旌旗と輜重が,千里は絶えることが無かった。〈《周禮》にいう:「析羽を旌(はた)として,熊虎を旗(はた)とする。」輜は,車名である。釋名にいう:「輜は,廁[1]也,軍糧や什器などのものを雑多に積載し。その関連のものを重ねていくことから,ゆえに輜重と称した。」重の音は直用の反切である。〉その時、巨人である巨無霸がいた,〈王莽の連率であった韓博が上言した:「異才有る士がいる,一丈より背が高く,十圍より横幅が大きい,自らを巨無霸という,蓬萊の東南の五城の西北の出身である,何かを喋ればまるで海浜の満ち引きのようで,二頭立ての馬車には乗せられない,三頭でも無理だろう,寝れば太鼓を枕として,鉄の箸でものを食べる。」《前書》にみえる。〉一丈より背が高く,十圍より大きかった,なので塁尉とした;〈鄭玄注の周禮にいう:「軍用のバリケードを塁といった。」崔瑗の中塁校尉の箴にいった:「黃帝は堂々と,設えて塁壁とした。」塁尉なる者、塁壁の事をつかさどる。〉また諸々の猛獣を駆使し〈「猛」は或いは「獷」と書く。獷は,猛きすがたのことである,音は古猛の反切である。〉虎や豹や犀や象が属し,武威を高める助けとした。秦、漢の出征の様子と比べても、未だかつて無いものであった。光武は数千の兵を率い,陽関においてこれをさえぎった。〈集落の名前である。酈元の水經注にいう:「潁水の東南では陽関の集落を通る,集落は潁水を挟んで相対していた。」今の洛州陽翟県の西北にある。〉諸将は尋、邑の兵の盛んさを見て,敗走して,昆陽に奔って逃げ帰った,皆恐惶状態であった,憂いをもって妻子のことを考えた,〈孥は,子である。〉諸々の城に散って帰ろうという意見が大勢を占めた。光武は発議して言った「今はもう兵糧もなく,そして外から来た敵は強大である,力を合わせてこれを防ぎ,あらゆる手段を使って戦線を支えるべきだ。分散を望んでしまえば、全ての軍から勢いが失われてしまう。宛城はまだ落とすことが出来てないし,〈伯升が宛を包囲しても未だ落とせていない事をいった。〉救援しあう事は難しい,昆陽がすぐ落ちて,これが早く伝わってしまえば,諸将の部曲は勝手に解散してしまうだろう。今は胆力をそこなってしまっているものも居るけれども、共に功名を挙げた我々ではないか,今更それを覆して妻子や財産を守ろうというのか?」諸将は怒って言った「劉将軍は何故敢えてそんなことを言うのだ!」光武は笑って立った。斥候が戻ってくると,大兵は今にも城の北に到達しそうで,軍は数百里に渡って陣を築き,その後方は見えなかった。諸将はここに到り、ようやく相談し合って言った「あらためて劉将軍の計画を聞きたい。」光武はまたどうすれば成功で、どうすれば失敗なのかを図示した。諸将は時間を惜しんで,皆「諾」といった。その時城中には8、9000人程度がいるだけだった,光武は成國上公王鳳、廷尉大將軍王常に留守を任せ,夜に自ら驃騎大將軍宗佻、〈驃騎大將軍,武帝が置いた,霍去病より始まる。佻の音は太堯の反切である。〉五威將軍李軼等十三騎とともに,〈王莽は五威将軍を置いた,その衣服は五方之色に依る,天下に威信をもってした。李軼は初め挙兵した頃,この号を借りたようだ。〉城南の門を出て外で兵を集めた。その時の王莽軍は城下に到る者だけでまさに十万ほどになろうとしていて、如何に光武と言えどこの時脱出をはかったのであれば出られなかっただろうという程だった。〈幾の音は祈。〉既に郾、定陵に到着し,悉く諸營の兵を発しようとしたが,しかし諸将は財貨を惜しみ,分散して守り合う事を望んでいた。これに対し光武は演説した「今もし敵を破ったとすれば,財貨宝物は何万倍にもなり,〈珤は,古の「寶」の字である。〉大きな功を成し遂げることが出来る。しかしなすがままにして,降服してしまえば掌に残るものはなにもなくなってしまうだろう,ましてや、財物など残ることはない!」みなこれにしたがった。

 これは昆陽に限らない、あらゆる圧倒的な兵力差を破った戦争に言えることだけれど、私見を述べるならば、よく史書では兵力差を誇張したりするけれど、多分実態としては古代や中世でもそこまで大きな差を破れるもんじゃないと思う。多分どの戦役も戦争も、解釈を積み重ねていけば合理的な兵数に収まるんじゃないかな。人間は変わらないからね。特に古代の大帝国の戦は兵役をしっかりやっている訳で。しかも前漢から新にかけては都試も有る訳で、恐らくは訓練された一定の質を確保された兵で構成されている事と思う。つまりその国内の戦となると、圧倒的兵力差の戦争に勝利するというのは絶対にあり得ない。そこで戦役の勝敗を考えていく場合は、如何に部分部分で兵力的に優勢の地帯を作り上げ、それによって破っていくのか、ってのが肝になってくる。

 あと恐らく大と大じゃない将軍がいることには意味があるだろう。これは仮説だが、部曲の兵を新の制度に適合するように増したものがもしかしたら「大」将軍なのかも知れない。

 仮に以前私が昆陽の戦いを分析した件のように、昆陽城を囲んだ王邑、王尋の兵が『東観漢記』のしるす五、六万であったと仮定し(五六万を五十六万と読むのは誤読だ。確かに、例えば私の使っている辞書の『新字源』の版である四二を四十二と読むような読み方はあるが、とすると直前に昆陽城の兵士は八九千と書かれているので王鳳軍は八万六千いるということになってしまうし、万の位をしるさないのは意味が分からなくなる。部分部分で記述法は統一されてるであろうし、五、六万で間違いないと思われる)。しかし光武ら(恐らくは光武以外にも逃げなかった将は居たと思う)以外が陽関で偉容に恐れをなして逃げたとすると、多分北上していたのは五万以下であることは間違いない、部曲を攻略した県にそれぞれ分割して配置し、占領地から供出した兵士に置き換えるということをやっていたとは思うが、それで諸将の兵が各地に点在する形になっていたのかも知れない。劉秀は彼らを説得して集めたか。

 成国上公が直接兵を指揮していたかは分からないが、彼はおそらく新市軍の二人のリーダーの一人だ。方面軍総司令であることは間違いない。陽関の時点ではもしかしたら廷尉大将軍の王常が一万五千程度を率い、驃騎大将軍の宋佻が一万五千程度を率い、劉秀が三千程度、李軼が八千程度それぞれ率いて居たのかも知れない。

 この数字は成国上公が戦域の統括であり兵を直接指揮するのでは無く高級指揮官を督察指揮することが役割であるという仮定と、大将軍号が二万、将軍号が一万、偏将軍号が五千を定数として、それぞれ攻略後各県の防備に兵を割いたり、或いは兵を供出させて定数に近づけたりと、色々して定数を満たしていない事を前提としているが、後漢から監察官が戦域を督察する事が増えることや、敵兵士数との兼ね合いで行くと、意外と悪くない想定なのではないだろうか。仮定に仮定に仮定を重ねることにはなるが。

 四万一千で仮に五万なら多少勝負になるラインだとは思うが、六万で四万一千だとまあまず見た瞬間に「無理」だろう。前秦の苻堅の淝水の戦いとはある意味逆だが、後退する勢いに巻き込まれるという点では同じだ、陽関聚では村落の真ん中を通る潁水を盾に戦う方針を決めたが一部の指揮官と兵士以外留まらず雪崩を打ったように各県に散り散りになり、河川で防御していた劉秀(そして当時は大した立場で無かった傅俊)らが河川である程度粘るも、案の定敗走してある程度が昆陽で合流、見るも無惨に減った王鳳軍と、陽関などで防御の兵を割いてやや定数を減らした王邑軍したというのが事実に近いのかも知れない。

 

 知れない知れない何も知らないって感じで済まない。だって誇張されてるんだもん仕方ないね。当初、各将は持久戦の構えであったように思う。宛(南陽郡)が落ちないうちに潁川を攻撃しているこの軍の戦略目標は、南陽郡の掌握より先に浸透突破して山と連携して潁川郡に防衛ラインを築き、南陽郡の地固めと、後々の武関の突破を支援することにあるのだろう。

 洛陽と南陽の間にある山は大軍の移動が難しかったと思われるので、潁川郡に防衛ラインを敷けば安心して長安を直撃できる。むじん氏サイトの地図で確認する限りでは、昆陽は丁度南陽盆地と中原とをつなぐ境目にあり、これより北西は、洛陽と南陽を隔てる山が遮っている。昆陽は間違いなく要衝といってよい。司令部は、昆陽にあったように思う。司令部を昆陽に置き、魯陽に兵站を集積していたと仮定すると、昆陽戦中の困窮と、昆陽戦後魯陽を落とす必要が出てくるので分かりやすい。

 ところが陽関での一撃によって主力が散り散りになり、魯陽が陥落して、昆陽城に戻れた兵士で籠城するも、備蓄した兵糧が少なく、劉秀は徹底抗戦を叫んでいたが、向こうは魯陽の兵站を得て物資豊富で攻囲戦には有利な状況が整っており、降服するしかないというのが昆陽城内の世論であったのだろう。そして、逆に物資豊富であったろう事実として、王邑軍は降服の申し出を蹴っている。諸将が万事休す、屠城不可避となったそこで劉秀は、今のままでも各県に散った潁川侵攻軍諸軍営の兵士を再結集すれば部分的優勢をつくれると図示して短期決戦させようとしたとみられる。よく言われるが劉秀は慎重だったり臆病だったりと書かれる割に結構自信過剰気味なところがある。(ただこの風評は劉良とともに反挙兵派閥であったことに由来する気がしないでもないが)

 劉秀はここで実際の術策を練ったこと「など」で更始帝に重用されるようになったか。

(16/12/01 1:55 初稿)

(16/12/01 2:05 微修正、微加筆)

(16/12/01 2:40 再加筆&再修正)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆