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『後漢書集解』入手&昨日のTwitterレス再考

 『後漢書集解』を手に入れたので次回より訳に反映してみる。

 そして、なんと、昆陽県城、王先謙の考証だと葉県の県治で合ってた……ちょっと私の想定より大分南だよおい。というか『後漢紀』の時系列だと魯陽どうやって攻撃したの?やっぱ山間の道あるの?こりゃ郡国志もみないとアカンやろなあ。

 そもそも維基文庫の帝紀以外にに李賢注ないのはどういう仕様なのか。著作権対策か何か?

 

 

 あとやっぱり劉秀は本隊とは別行動で昆陽、定陵、郾を落とす→合流の流れでいいみたいだね。本隊が大部隊で陸上の他県を落としている間に劉秀は河川沿いの県を確保した流れかな。帝紀のこの記述では舞陽や陽翟が落ちてないことを理由にやはりここは他軍が落とした城があることを想定するべきみたいだ。宋佻らの面目躍如であったんだろうか。

 宋佻は宛での再封、再拝なく、長安で諸王を封じた際に何かの侯ではなくそのまま驃騎大将軍であったから、どうやら昆陽での功に関わっていない様子。帰還して再編後出発予定だったんだろうか。あの中では昆陽の功に関わったのは劉秀を筆頭として、馬武、蘇茂、劉稷の3人かな。あの時期特有の若干浮いてる雑号将軍、雑号?侯(こういうのなんて言ったっけか)を受けたのはこの4人となる。本当に本貫バラバラで寄せ集めの私兵集団という気がするな。それぞれ部曲の1人であったのだろうけど。

 李軼は分からない。五威中郎将とあるのが、本当は五官中郎将の誤植であるなら、栄転であったかもしれないし、五威将軍から五威中郎将のままなら劉玄の中軍を任されるようになっただけかも知れない。記録に残る各人の爵位、位官の変遷を見るに劉玄が漢制へと戻していくには段階を踏んでいて、諸軍の解体と再編成をしている。そしてこの二種の栄転、どちらであっても昆陽の功によるものか劉縯謀殺によるものかはちょっと計りかねる。諸軍の位置的に援軍を呼びに行って本陣へ逗留し、謀殺という流れの方が綺麗だけれども、それを選んでいいものか。

 

(16/12/06 14:31 初稿)