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渡来人、読文学。

中国史や野球、マンガや小説、アニメなどの感想についてのブログです。

二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 行司隷校尉

二十四史 後漢書 私見 東方

司隷校尉、光武、洛陽での初めてのおつかいです。

レイアウト、試行錯誤中

 

●本文

 更始將北都洛陽,以光武行司隷校尉,使前整修宮府。〈《前書》曰:司隷校尉本周官,武帝初置,持節,從中都官徒千二百人,督大姦猾。後罷其兵,察三輔、三河、弘農。秩比二千石。音義云:「以掌徒隷而巡察,故曰司隷。」(集解)恵棟曰鄭元周礼注漢始置司隷使将徒治道溝渠之役後悄尊之使主官府及近郡〉於是置僚屬〈(集解)先謙曰官本置作致古通用恵棟云致通鑑作置此與九年初致靑巾立校尉官十五年致三校尉官皆当作置而紀作致者疑古字通也〉,作文移,〈《東觀記》曰「文書移與屬縣」也。(集解)恵棟曰王幼学云移箋表之類也官曹公府不相臨敬則為移〉從事司察,一如舊章。〈《續漢書》曰:「司隷置從事史十二人,秩皆百石,主督促文書,察舉非法。」〉時三輔吏士東迎更始,見諸將過,皆冠幘,〈漢官儀曰:「幘者,古之卑賤不冠者之所服也。」方言曰:「覆髻謂之幘,或謂之承露。」〉而服婦人衣,諸于繡镼,〈《前書》音義曰:「諸于,大掖衣也,如婦人之褂衣。」字書無「镼」字,續漢書作「䘿」,並音其物反。楊雄方言曰:「襜褕,其短者,自關之西謂之『䘪䘿』。」郭璞注云:「俗名䘿掖。」據此,即是諸于上加繡䘿,如今之半臂也。或「繡」下有「擁」字。(集解)劉攽曰繍镼及注案言字書無镼即無音矣何言得並明衍此字恵棟曰諸于説文云衧諸衧也省作于玉篇尤夫切続志云衣婦人衣繍擁镼故注云或繍下有擁字也先謙曰正文於字誤当依注作于官本不誤〉莫不笑之,或有畏而走者。〈《續漢志》曰:「時知者見之,以為服之不中,身之災也,乃奔入邊郡避之。是服妖也。其後更始遂為赤眉所殺。」〉及見司隷僚屬,皆歡喜不自勝。老吏或垂涕曰:「不圖今日復見漢官威儀!」由是識者皆屬心焉。〈(集解)恵棟曰東観記三輔官府吏東迎洛陽者見更始諸将過者既数十輩冠幘衣婦人衣大為長安所笑知者或畏其衣犇亡人辺郡及見司隷官属相指視之極望老吏或垂涕曰粲然復見官府儀体賢者蟻附〉

 

●書き下し

 更始は將に北の洛陽に都せんとし,以て光武に行司隷校尉とし,前に宮府を整修せしむ。〈一〉是に於て僚屬を置き〈二〉,文を作りて移す,〈三〉司察に從事すること,一は舊章の如し。〈四〉時は三輔の吏士が東に更始を迎へ,諸將の過ぐるを見,皆幘を冠し,〈五〉而して婦人の衣,諸于繡[1]镼を服とす,〈六〉之を笑わざること莫らん,或ひは畏れ而走ぐる者あり。〈七〉及ち司隷の僚屬を見,皆歡喜自ら勝へざる。老吏或ひは垂涕して曰ふ:「今日に復た漢官の威儀を見るとは圖[2]らざる!」是に由りて識者は皆心を屬す焉。〈八〉

 

〈一〉《前書》に曰ふ:司隷校尉は本は周官なり,武帝が初めて置く,持節し,中都官に從ひ徒は千二百人なり,大姦猾を督す。後に其兵を罷む,三輔、三河、弘農を察す。秩は比二千石なり。音義に云ふ:「掌りて以て徒隷をして巡察す,故に司隷と曰ふ。」(集解)恵棟曰ふ、鄭元の周礼注に「漢が司隷に置き始む。徒を将ひ道、溝渠之役を治めしむ。後に悄く之を尊び、官府及び近郡を主(つかさど)らしむ。」と。

〈二〉(集解)先謙曰ふ、官本は「置」を「致」に作る、古くは通用せり。恵棟は云ふ、「致」は通鑑が「置」に作る。「此れ與に九年に初めて靑巾立校尉官を致し、十五年に三校尉官を致す」と。皆当に置に作るべきに、而して紀に「致」作る者は古字に通ずるか疑わしき也と。

〈三〉《東觀記》に曰ふ「文書を移して屬縣に與ふ」也。(集解)恵棟曰く王幼学が云ふには箋表之類を移す也と。官曹は公府に相臨まずして敬す。則ち移すが為なり

〈四〉《續漢書》に曰く:「司隷は從事史十二人を置く,秩は皆百石,督促文書を主り,非法を察舉す。」

〈五〉漢官儀に曰ふ:「幘といふ者,古へは之を卑賤とし、冠せざる者之服する所也。」方言に曰ふ:「髻[3]を覆して之を幘と謂ふ,或ひは之を承露[4]と謂ふ。」

〈六〉《前書》の音義に曰ふ:「諸于は,大掖衣[5]也,婦人之褂衣の如し。」字書に「镼」字無し,續漢書は「䘿」に作る,並び音は其物の反なり。楊雄の方言に曰ふ:「襜褕[6]は,其の短き者なり,關之西よりは『䘪䘿』を之と謂ふなり。」郭璞注に云ふ:「俗名は䘿掖なり。」此に據り,即ち是は諸于の上に繡䘿を加える,今の之の如きは半臂[7]也。或ひは「繡」の下に「擁」字有り。(集解)劉攽曰ふ「繍镼注に及び案じて字書に镼無しと言うは即ち無音矣。何ぞ言ふを得ん、並びに此字は明らかに衍たり。恵棟に曰ふ諸于は《説文》に云ふ「衧は諸衧也、省きて于と作る。玉篇に尤夫の切なり」と。《続志》に云ふ、衣は婦人衣の繍擁镼なり。故に注して云ふ或ひは繍の下に擁字有る也と。先謙曰ふ、文は正しく字に於て誤れり。当に注に依りて于と作る官本は誤らざるべしと。

〈七〉《續漢志》に曰ふ:「時の知者之を見て,以為らく服の中らざるは,身の災也と,乃ち邊郡に奔げ入りて之を避く。是れ服が妖しき也。其後、更始は遂に赤眉の殺さるる所と為る。」

〈八〉(集解)恵棟曰ふ《東観記》に三輔の官府の吏は東に洛陽の者を迎へ見ん。更始諸将の過ぐる者は既に数十輩、幘を冠し婦人衣を衣し、大いに長安の笑ふ所と為る。知者は或ひは其衣を畏れ、犇きて亡[8]ぐる人は辺郡に及ぶ。司隷官属を見て相指して之を視て極望[9]し、老吏或ひは垂涕して曰ふ「粲然と復た官府の儀体[10]を見る」賢者は蟻附[11]せり。

 

●字釈

[1]縫い取り(792頁)

[2]㋒考える(204頁)

[3]もとどり、たぶさ、髪を頭上で束ねたところ。(1137頁)

[4]天から降る露を承けるもののことをいうようだ。(403頁)

[5]「掖」わき、⑤宮殿、御所(416頁)

[6]礼服でない短い着物、まえかけ(910頁)

[7]袖の短い上衣(138頁)

[8]にげる(36頁)

[9]目の届く限りはるかに眺める(515頁)

[10]「儀態=儀容」の語釈で礼儀にかなったすがた、かたちとある。文脈をみるに同義か。(81頁)

[11]ありのように城壁などにくっついてよじのぼる。

 

●訳

 更始帝は北の洛陽に遷都しようとして、光武に行司隷校尉の官を加えて、先に宮殿や官府を修繕し、整えさせた。〈一〉これによって光武は僚属を置き〈二〉,文書行政を始め,〈三〉監察を行うこと,漢の古い法律を優先することを第一として行った。〈四〉時は三輔の官吏、兵士が東に更始を迎えに来て、諸將の歩いて行く様子をみるに,みな粗末な帽子を被り,〈五〉諸于、繡镼といった婦人の服を着ていた,〈六〉これを笑わずには居られなかった,あるいはこれを恐れて逃げ出すものもいた。〈七〉司隷校尉劉秀の僚属を見るに及んでは,皆歓喜を抑えられなかった。老いた官吏は涙を流しながら言った:「今日にまた漢の官吏の威儀を見られるとは思わなかった!」と。これによって知識人はみな心を劉秀に帰した。〈八〉

 

〈一〉《前書》ではこう言っている:司隷校尉は本は周の官である,武帝が初めて置いた。持節し,中都官に従い、千二百人の刑徒を指揮し、大犯罪者を督察した。後にその兵をやめ,三輔、三河、弘農を監察した。秩は比二千石である。音義にいった:「刑徒や奴隷を掌管して巡察した,故に司隷といった。」(集解)恵棟はこういった、鄭元の周礼注に「漢が司隷に置き始めた。奴隷や役夫を率いて道や溝、堰を作る土木作業に従事した。後にようやくこれを尊ぶようになり、官府や近郡をつかさどるようになった。」と。

〈二〉(集解)先謙はこういっている、官本は「置」を「致」としている、古くは通用した。恵棟はこういっている、「致」は通鑑が「置」としている。「これともに九年に初めて靑巾立校尉官を致し、十五年に三校尉官を致す」と。皆当に置に作るべきなので、こうやって紀に「致」作る者は古字に通じているか疑わしいと。

〈三〉《東觀記》ではこういっている。「文書を移して属県に与える」ことであると。(集解)恵棟はこういっている。王幼学がいうには、箋表之類を移すことであると。官僚は官庁の中で互いに顔を合わせずとも敬愛しあうものだが、これは文書の移動によって敬愛が醸成されるためだ。

〈四〉《續漢書》ではこういっている:「司隷は属官として從事史十二人を置く。秩は皆百石であり,督促文書をつかさどり、法を犯すものを摘発する。」

〈五〉《漢官儀》ではこういっている:「「幘」というものは,古はこれを卑賤なものとし、官僚でないものが被ったものである。」方言に曰ふ:「もとどりを覆してこれを「幘」といった,あるいはこれを「承露」といった。」

〈六〉《前書》の音義ではこういっている:「諸于は,掖の大きな衣のことである,婦人の褂衣のようなものだ。」字書に「镼」の字は無い,《續漢書》は「䘿」としている,また音は其物の反切である。楊雄の《方言》にはこうある:「「襜褕」は,そのみじかいものである。函谷関より西では『䘪䘿』と之をいう。」郭璞の注ではこういっている:「俗名は䘿掖という。」これによれば,即ちこれは諸于の上に繡䘿を加えるのだ,今でいう袖の短い上衣のことだろう。あるいは「繡」の下に「擁」の字があるのだろう。(集解)劉攽はこういっている「繍镼は注を含めて考えるに、字書に镼無しと言うのは即ち音がないことをいうのだろう。何を言うことができようか。その上この字は明らかに衍字であろう。恵棟はこういっている。諸于は《説文》に云ふ「衧は諸衧である、はぶいて于とする。《玉篇》によると、尤夫の反切である」と。《続志》によると、衣は婦人の服である繍擁镼である。故に注で或ひは繍の下に擁の字が必要だろうと指摘されているのだ。先謙はこういっている、文は正しいが字については誤っている。注によって于と作る官本は間違っていない。

〈七〉《續漢志》にはこうある:「時の知識人はこれをみて,官の服が正しくないことは、身の災い(が起こる)であろうと思い,辺境に逃げてこれを避けようとした。これは服が妖しいからだ。その後、更始帝は赤眉に殺されることとなった。」

〈八〉(集解)恵棟はこういっている。《東観記》に三輔の官府の吏は、東に洛陽の者を迎えるため見に行った。更始諸将が通り過ぎていくこと十人ほど、幘を被って婦人の服を着ていた。長安ではこれが大いに笑いものにされた。あるいは知識人はその衣服を恐れ、逃げる人たちはひしめいて辺郡にまで逃げ込んだ。(だが)司隷校尉の属官を相見ては遠くから眺め、老吏はあるいは涙を流しながらこういった「燦然とまた官府の姿をみようとは」賢者は壁によじ登ってまでそれを見ようとした。

 

●私 

 難産でした。主に着物の解釈のせいです。どれも『新字源』にまともに載ってねえでやんの。諸橋『大漢和』を図書館で読もうかと思ったけど、中国語圏の字釈ググっても似たようなもんだから新しい発見は余り望めないかなぁ? そもそも清の人も音釈からして苦労してるっぽいので諦めてこのまま出そうと思います。ええ、時代が離れすぎてるのが悪い。大掖衣ってことでどっかの腋巫女の衣装だと思っておくことにします。光武の服は赤いようだしね。

 あと「鄭元」はまぁ「鄭玄」でしょうね。主に康熙帝(愛新覚羅玄●(●は火へんに華))の避諱のせいですな。古参やきう民しか分からんネタを出してすいません。ちなみにこんな場末のブログに来て下さる方は大体知ってそうですが、鄭玄は後漢の学者で、日本でも長らく重んじられた事もあり、現代でも「じょうげん」と読み習わします。

 また独自解釈となりますが、これ、彼らの風貌を笑ったのは更始帝の敗亡が確定してから、それどころか光武の治世が落ち着いてから、結果から逆算してのことじゃないのかなぁ。色々調べてみると、『漢書』にも後宮の女性の衣装としてあるようだし、「婦人のような衣装」の出所を考えると正直、後宮からの略奪物を献上されての事じゃないかなぁと思うし、それを笑う余裕を持った長安人が同時代のこととしてあるとは思えない。記録者は班彪と班固、班一族は長安から逃げ出した側、後世に記したかたちだよね。

 あと官僚が文書を互いにやりとりすることで、果たして互いに敬いあえるようになるかということと、蟻みたいに城壁をよじ登ることが賢いのかどうかには大きな議論があると思う。

 

 しかし、光武は更始帝に随分と信頼されていますな。洛陽を玄漢の都として据えるにあたり、その基礎を整えるのを、兄が自らによって誅殺されたばかりの光武にやらせるとは。更始帝の方が南陽劉氏の正統に近く、光武が遠いとはいえ、一族で纏まる当時の血族としての空間は、もしかしたら今核家族化が進む現代で考えられているよりもずっと、近かったのかも知れない。それで光武の復讐心や野心を更始帝が軽んじてしまったということは無かったりしないだろうか。 というのも、王立は王莽とは政治的対立者であったのに、あれだけ重んじられて、専横を見過ごされていた。同じ事が、劉一族にも言えないだろうか。

 そして、もし光武が裏切らなければ更始帝は族弟とも仲睦まじい超時代的名君として称えられていたような気がする。その場合、光武の立ち位置は楚漢でいえば劉賈、三国志でいえば夏侯惇曹仁、唐代でいえば李孝恭、宋代でいえば趙光義かな。アレ?最後のせいで結局王朝乗っ取られて居そうな気がしてきたぞ。 もし千年くらいおきに「千載不決の議」が出るとしたらうまくいけば今世紀中に見られそうではあります。例の件、本当に千年たっても結論が出なさそうで困る。

 あとどうでもいいけど時々『集解』の注の中で恵棟と王先謙が喧嘩してないか?読んでて楽しいからいいけど。

 

 レイアウトはこれが一番いいかなぁ。注は「演習の時もちゃんと分かりやすいように分けてたような」と今更思い出したし、ちょっとゼミの教授の所行って我が無能について叩頭してくるべきかも知れない。

 あとこうすると実は大して文章が進んでないことがバレるね。注長過ぎ。

 

(2016/12/12 18:26 初稿)

(2016/12/12 18:31 色を変えたり戻したり)

(2016/12/12 18:43 なんか訳し忘れてたっぽい所をちょいちょいと)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆

     中華書局『後漢書集解』選:王先謙