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まめさんが提起された、劉秀が赤眉と更始帝間の仲違いを図ったのではないかという件について

 2chの話題と、まめさんが提起された、劉秀が赤眉と更始帝間の仲違いを図ったのではないかという件について。時系列的まとめと、史書記述関係のまとめ、及び私の補足をまとめました。

 まずは、2ch某所の話題からです

628 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:05:38.41 id:DsvLZz3c0 [3/3]
>>625
年表がおかしくなっていたな。スマン
その上で少し整理。

更始元年九月 王莽死に、更始帝軍、長安を占領。
更始元年十月 更始帝、洛陽を都とする。
       更始帝、劉秀を行事大司馬とし、河北に派遣。
    十二月 王郎、天子を名乗る。
更始二年二月 更始帝、長安を都とする。
       赤眉に使者を送る。赤眉、降伏する。
     五月以降 劉秀、独立を決め、更始帝の幽州牧・苗曾らを殺す。
     秋  赤眉の別帥らを射犬に打ち破る。
        呉漢、更始帝の尚書令・謝躬を殺す。
    冬  赤眉、更始帝に反し、潁川に入り、長安を目指す。

五月に更始帝からの独立を決めた後、更始帝の名で赤眉を攻撃。
赤眉が長安に向かうことが確認できた後、謝躬を殺して完全独立したのだろう。
謝躬らを派遣した長安は手薄。判断に迷った場合、赤眉が向かう可能性は高い。

もし、赤眉が河北に向かってきたら、更始帝が自分と手を切れないのを見越して、
長安に援軍を呼んで赤眉を撃滅して、その後で独立しようとしていたのだな。

 

 それを受けての昨日のまめさんのTweetです。

"小仙芝”まめ @mamesiba195

某所での赤眉に関する話題だが、木村正雄先生が赤眉に関して同様のことを、「中国古代農民反乱の研究」で語っている。木村先生は、赤眉が「更始帝の反乱までは郡県を支配する官僚を殺しておらず、自分で政権をとる意志がないこと」「劉縯の発言による緑林との同盟の可能性の示唆」(続く)

@mamesiba195「漢を思う。真主の出現を待つ。火徳の漢王朝を表す赤眉をする。など漢の再興を願い、すぐれた専制君主を待っていること」「王莽死後、更始帝にすぐに降伏したこと」を指摘し、赤眉が独自で政権を持つ意志がなかったことを指摘している。

@mamesiba195 しかし、更始帝の列侯を封じられても、黄河決壊後、水利が破壊された山東の「第二次農地」(大規模な治水を必要とする農地)を破壊され、更始帝の政治的無能もあって、それが回復されず、自己の政権をつくろうとしたと論説している。

@mamesiba195 ほぼ同意するが、最後の二行だけは疑問。黄河の決壊で生まれた農地の荒廃を政権が固まっていない更始帝がどうすることもできないのを理解できないほど赤眉の首脳は愚かだろうか? また、更始帝は南陽劉氏が従属しており、彼らは見放すことはなかった。無能の記述に疑問がある

@mamesiba195 赤眉には、確かに第二次農地を回復させる能力はないだろう。しかし、中国古来からある「均」(万人の公平)を求める理念はある。とすると、その思考は持てるもの(=豪族)から奪い、万人に配る考えに達するだろう。

@mamesiba195 すると、赤眉はその理念を実行する必要がある。赤眉は、略奪も激しくなく、仲間である農民反乱軍とは交戦した記録はない。一定の秩序がある。三輔では、あくまで豪族・富豪から奪おうとして、農地を破壊してしまう結果になったのだろう。また、漢の再興を望んでもいる。

@mamesiba195 王莽を倒し、自分たちを列侯に封じ、緑林という仲間もいる更始政権を積極的に滅ぼす理由はない。射犬に他の農民反乱軍を集めたのは、更始政権と共存を図るためであろう。しかし、それを一方的に破ったものがいた。銅馬を降伏させ、兵としての活用を考えた劉秀軍である

 

 対して深夜に反論レスがありました。

629 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 00:36:30.83 id:NikD6mn60
それはちょっと無理ありすぎw
何ぼ赤眉が脳筋イナゴ軍団でも、更始帝軍が盟約破って攻撃してきたら
詰問の使者くらい出すだろ。
で、あれはうちに反旗翻した劉秀がやった事だって返事が来れば
攻撃の矛先は劉秀の方に向くだろ。
もしあんたの言う通りだったとしたら、更始側の対応が余程間抜けだったとしか

 

 それに関して私の補足Tweetと、及び史書の該当部分です。

 まずは『通鑑』を見ての時系列の確認

大蔵春 @ookuranoharu 

某所、赤眉が射犬聚の戦には攻撃側として謝躬が参加しているので、劉秀による更始帝軍へのなすりつけが成立する余地が全くないか、というと私は余地はあると考える。直接記述にないことなので断言はしないが。
通鑑を読む限りは面白い記述順になっている。

@ookuranoharu というのも、
段落1 光武が赤眉含む軍を射犬聚で撃破する
段落2 劉秀が「射犬聚から逃げてくる敵は尤来なので尤来を討って欲しい」と謝躬に依頼して、謝躬が隆慮山で敗北した後に謝躬謀殺
段落3 赤眉が進退窮まって逃散するか長安に進軍するかを決める

@ookuranoharu という流れになっている。

 

 史書からの該当箇所引用を以下で行います。

 なお、以下の引用において

 更始帝政権及び謝躬の動きは青。

 光武帝政権の動きは赤。

 赤眉及び群賊の動きは青緑。

 いらんところはちっちゃくしました。

 『資治通鑑』、該当部分です。

赤眉別帥與青犢、上江、大彤、鐵脛、五幡十餘萬眾在射犬,蕭王引兵進擊,大破之。南徇河內,河內太守韓歆降。

初,謝躬與蕭王共滅王郎,數與蕭王違戾,常欲襲蕭王,畏其兵強而止。雖俱在邯鄲,遂分城而處,然蕭王每有以慰安之。躬勤於吏職,蕭王常稱之曰:「謝尚書,真吏也!」故不自疑。其妻知之,常戒之曰:「君與劉公積不相能,而信其虛談,終受制矣。」躬不納。既而躬率其兵數萬還屯於鄴。及蕭王南擊青犢,使躬邀擊尤來於隆慮山,躬兵大敗。蕭王因躬在外,使吳漢與刺奸大將軍岑彭襲據鄴城。躬不知,輕騎還鄴,漢等收斬之,其眾悉降。

更始遣柱功侯李寶、益州刺史張忠將兵萬餘人徇蜀、漢。公孫述遣其弟恢擊寶、忠於綿竹,大破走之。述遂自立為蜀王,都成都,民、夷皆附之。

冬,更始遣中郎將歸德侯颯、大司馬護軍陳遵使匈奴,授單于漢舊制璽綬,因送雲、當餘親屬、貴人、從者還匈奴。單于輿驕,謂遵、颯曰:「匈奴本與漢為兄弟,匈奴中亂,孝宣皇帝輔立呼韓邪單于,故稱臣以尊漢。今漢亦大亂,為王莽所篡,匈奴亦出兵擊莽,空其邊境,令天下騷動思漢;莽卒以敗而漢復興,亦我力也,當復尊我!」遵與相撐拒,單于終持此言。

赤眉樊崇等將兵入穎川,分其眾為二部,崇與逢安為一部,徐宣、謝祿、楊音為一部。赤眉雖數戰勝,而疲敝厭兵,皆日夜愁泣,思欲東歸。崇等計議,慮眾東向必散,不如西攻長安

 

 更に補足です

@ookuranoharu 追記 呉漢伝に記される謝躬と劉秀の関係には、矛盾と、理由が書かれていない不自然な点がいくつかある。

@ookuranoharu 矛盾その1 謝躬と劉秀は仲が悪いと書かれているのに、謝躬は劉秀の事を信頼している。
矛盾その2 仮に劉秀が謝躬を一方的に嫌っていたとして、それが邯鄲での略奪を理由とするのであれば、馬武龐萌を受け入れた理由が疑わしく、略奪多い呉漢を忠とした事も疑わしい。

@ookuranoharu 不自然な点その1 射犬聚で光武が討ったとされている赤眉の記述が一切消えている。
不自然な点その2 何故謝躬は「幽鬼」であったのか。つまり何故謝躬は死んでいなければならなかったのか。即位が決まっているのであれば、実権を奪った時点で済んだ話だろう。

@ookuranoharu もう一つ、謝躬は何の権限で6将を率したのかが分からない。制度の混乱で片付けてしまうのは簡単だが、もしかしたら持節を記述するのを省かれている可能性がある。節を与えられて監督しているのであれば、光武の命に違戻するのは全くおかしいことではないだろう。

@ookuranoharu 最後に、山陽県は射犬聚のある野王県の東にあり、河南河内のある盆地の中原側の出口方面にある。また劉盆子伝にも赤眉が反した理由がない。『後漢書』の記述では時制がよく分からないこの事件の顛末から光武即位までを、何故『通鑑』はこの順で配置したのだろうね。

@ookuranoharu 更に追記。某所の赤眉は何故更始帝に詰問使を出さなかったのかについて検討してみよう。

@ookuranoharu まず詰問使という言葉がおかしい。赤眉と更始の関係は対等の盟約ではない。赤眉は洛陽に都していた頃の更始帝の驥尾に付す形だ。河南に逗留していたが逃散していくという情景は描写されている通りだろうし、赤眉の立場は、官軍から攻撃を受けた農民集団と考えるべきもの。

@ookuranoharu >何ぼ赤眉が脳筋イナゴ軍団でも
略奪があったとは言え、豪族で知識人階層で、しかも劉秀と姻戚関係のある鄧奉ですら、劉秀と一度仲を違えると周囲の説得に応じていない。
赤眉と更始帝の間にのみそこまで理性と内部統制力が働くと考える理由がわからない。

 

 『後漢書光武帝紀&劉盆子列伝&呉漢列伝の該当部分です。

 『後漢書光武帝

赤眉別帥與大肜、青犢十餘萬衆在射犬,光武進擊,大破之,衆皆散走。使吳漢、岑彭襲殺謝躬於鄴。

青犢、赤眉賊入函谷關,攻更始。

後漢書』劉盆子列伝

更始都洛陽,遣使降崇。崇等聞漢室復興,即留其兵,自將渠帥二十餘人,隨使者至洛陽降更始,皆封為列侯。崇等既未有國邑,而留眾稍有離叛,乃遂亡歸其營,將兵入潁川,分其眾為二部,崇與逄安為一部,徐宣、謝祿、楊音為一部。崇、安攻拔長社,南擊宛,斬縣令;而宣、祿等亦拔陽翟,引之梁,擊殺河南太守。赤眉眾雖數戰勝,而疲敝厭兵,皆日夜愁泣,思欲東歸。崇等計議,慮眾東向必散,不如西攻長安

後漢書』呉漢列伝

初,更始遣尚書令謝躬率六將軍攻王郎,不能下。會光武至,共定邯鄲,而躬裨將虜掠不相承稟,光武深忌之。雖俱在邯鄲,遂分城而處,然每有以慰安之。躬勤於職事,光武常稱曰『謝尚書真吏也』,故不自疑。躬既而率其兵數萬,還屯於鄴。時光武南擊青犢,謂躬曰:『我追賊於射犬,必破之。尤來在山陽者,勢必當驚走。若以君威力,擊此散虜,必成禽也。』躬曰:『善。』及青犢破,而尤來果北走隆慮山,躬乃留大將軍劉慶、魏郡太守陳康守鄴,自率諸將軍擊之。窮寇死戰,其鋒不可當,躬遂大敗,死者數千人。光武因躬在外,乃使漢與岑彭襲其城。漢先令辯士說陳康曰:『蓋聞上智不處危以僥幸,中智能因危以為功,下愚安於危以自亡。危亡之至,在人所由,不可不察。今京師敗亂,四方雲擾,公所聞也。蕭王兵強士附,河北歸命,公所見也。謝躬內背蕭王,外失眾心,公所知也。公今據孤危之城,待滅亡之禍,義無所立,節無所成。不若開門內軍,轉禍為禍,免下愚之敗,收中智之功,此計之至者也。』康然之。於是康收劉慶及躬妻子,開門內漢等。及躬從隆慮歸鄴,不知康已反之,乃與數百騎輕入城。漢伏兵收之,手擊殺躬,其眾悉降。〈続漢書曰,時岑彭已在城中,将躬詣傅舎,出白漢。漢至躬在彭前伏,漢曰「何故與鬼語」遂殺之。〉

 

 私見としては、まめさんの仰るとおり、実際これはあり得るように思います。じゃないと謝躬を捕らえたにも関わらず殺す理由に欠けていますし、「光武が赤眉を含む諸賊を河内郡野王県(射犬聚)から北東へ追いやり、追い出された集団を謝躬が鄴から進発して山陽県近隣で北東を塞いで攻撃し、赤眉は南の潁川方面へ逃げていく。」という流れだと、洛陽に居たはずの赤眉渠帥とその統制下にあって河南に入らず留め置かれたはずの赤眉兵が合流して潁川に唐突に現れる理由がハッキリします。光武が赤眉と更始帝をぶつけて相互疲弊を誘い、その間に即位してしまうというのが当座の方針だったのでしょうね、私個人はこれまで述べたように、謝躬については単なる反対者の謀殺ではなく、赤眉を誘導するためのキーマンだったと考えます。

 おそらく持節ないしは尚書としての監察権限で独立行動し、光武の監察を行う側として見られていた謝躬が、攻撃に加わっている事で絶望し、赤眉は離反したのではないでしょうか。

 ただ、赤眉別帥が樊崇集団と無関係な赤眉軍と解釈すればまた別の推測も立ってくるのですが。ただ、仮にこの赤眉別帥が樊崇集団と直接は無関係でも、更始に下った赤眉渠帥が更始政権においてあまり宜しからぬ立場に立たされるのは同様だと思います

 

 しかし、史書を総合した飽くまでも推測となるので、断定は難しいですね。

 ちなみに鄧奉と第三者である趙憙との、鄧奉に対して光武帝への降服を促すやりとりがあった件については、趙憙伝かwikiでも確認して下さい。

 

ソース:

後漢書 - 维基文库,自由的图书馆

資治通鑑 - 维基文库,自由的图书馆

(2016/12/21 18:58 初稿)

(2016/12/21 19:54 改稿&追記)

(2016/12/21 21:11 点の打つ箇所を間違えました)