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二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 河北千里行

 光武、河北行その2

●本文

二年正月,光武以王郎新盛,乃北徇薊。〈縣名,屬涿郡,今幽州縣也。本字從「契」從「邑」,見說文。(集解)先謙曰今順天府大興県治〉王郎移檄購光武十萬戶,〈《說文》曰:「檄,以木簡為書,長尺二寸。謂之檄,以徵召也。」又曰:「以財有所求曰購。」魏武奏事曰:「若有急,即插以雞羽,謂之羽檄。」〉而故廣陽王子劉接〈廣陽王名嘉,武帝五代孫。〉起兵薊中以應郎,城內擾亂,轉相驚恐,言邯鄲使者方到,二千石以下皆出迎。於是光武趣駕南轅,〈趣,急也,讀曰促。〉晨夜不敢入城邑,舍食道傍。至饒陽,〈縣名,屬安平國,在饒河之陽,故城在今瀛州饒陽縣東北。(集解)先謙曰在今深州饒陽県東史記趙封長安君以饒也〉官屬皆乏食。光武乃自稱邯鄲使者,入傳舍。〈客館也。傳音知戀反,下同。〉傳吏方進食,從者飢,爭奪之。傳吏疑其偽,乃椎鼓數十通,〈椎音直追反。〉紿言邯鄲將軍至,〈紿,言欺誑也,音殆。〉官屬皆失色。光武升車欲馳;旣而懼不免,徐還坐,曰:「請邯鄲將軍入。」乆乃駕去。傳中人遙語門者閉之。門長曰:「天下詎可知,而閉長者乎?」遂得南出。晨夜兼行,蒙犯霜雪,〈蒙,冒也。〉天時寒,面皆破裂。至呼沱河,〈《山海經》云:「太戲之山,滹沱之水出焉。」在今代州繁畤縣東,流經定州深澤縣東南,即光武所度處,今俗猶謂之危度口。臣賢案:呼沱河舊在饒陽南,至魏太祖曹操因饒河故瀆決,令北注新溝水,所以今在饒陽縣北。〉無船,適遇冰合,得過,〈《續漢書》曰:「時冰滑馬僵,乃各以囊盛沙,布冰上度焉。」〉未畢數車而陷。進至下博城西,〈下博,縣,屬信都國。在博水之下,故曰下博。故城在今兾州下博縣南。(集解)恵棟曰李吉甫云在県南二十里応劭太山有博故此加下先謙曰在今深州東南三十里〉遑惑不知所之。有白衣老父在道旁,〈老父蓋神人也,今下博縣西猶有祠堂。(集解)恵棟曰酈元云漢氏中興始基之矣尋求老父不得議者以為神〉指曰:「努力!〈(集解)恵棟曰公羊伝尚速有於子身何休云尚猶努力〉信都郡為長安守,去此八十里。」〈信都郡,今兾州也。(集解)恵棟曰時更始都長安故云為長安守先謙曰前志信都国景帝二年為広川国宣帝甘露三年復故然百官表成帝永始二年有信都太守是国為郡矣哀帝建平二年徙定陶王景為信都王則信都為国莽簒貶為公明年廃則国又為郡此文可互証〉光武即馳赴之,信都太守任光開門出迎。世祖因發旁縣,得四千人,先擊堂陽、貰縣,皆降之。〈堂陽及貰並屬鉅鹿郡。堂陽在堂水之陽,今兾州縣,故城在今兾州鹿城縣西南。貰音時夜反。(集解)先謙曰堂陽在今冀州新河県西貰県在今保定府束鹿県西南後漢省入鄡〉王莽和成卒正邳彤亦舉郡降。〈《東觀記》曰:「王莽分鉅鹿為和成郡。」卒正,職如太守。〉又昌城人劉植,宋子人耿純,〈昌城,縣,屬信都國,故城在今兾州西北。宋子,縣,屬鉅鹿郡,故城在今趙州平棘縣北。(集解)先謙曰昌城在今冀州西北後漢改阜城属安平国宋子在今趙州北後漢省入平棘城当為成城成亦通作〉各率宗親子弟,據其縣邑,以奉光武。於是北降下曲陽,〈縣名,屬鉅鹿郡。常山郡有上曲陽,故此言下。(集解)先謙曰在今正定府晋州西〉衆稍合,樂附者至有數萬人。

 

●書き下し

 二年正月,光武王郎の新たに盛んなるを以て,乃ち北に薊を徇る。〈一〉王郎檄を移して光武を十萬戶にて購はんとす,〈二〉而るが故に廣陽王子劉接は〈三〉郎に應ずるを以て薊中に起兵す,城內擾亂し,相ひ轉〈ころ〉げ驚恐せり,邯鄲の使者方に到ると言ひ,二千石以下皆出迎す。是に於て光武は趣(うなが)し駕して南へ轅[1]す,〈四〉晨夜城邑に敢入せず,道傍に舎食せり。饒陽に至る,〈五〉官屬皆食に乏し。光武乃ち自ら邯鄲の使者を稱し,傳舍に入る。〈六〉傳吏は方に食を進め,從者は飢へ,之を爭奪せり。傳吏は其の偽りを疑ひ,乃ち鼓を椎[2]つこと數十通[3]り,〈七〉紿(いつわ)りて邯鄲將軍至ると言ひ,〈八〉官屬は皆色を失ふ。光武は車に升りて馳せんと欲するも;旣に而して懼れても免れず,徐に還りて坐して,曰ふ:「邯鄲の將軍の入るを請う。」乆[4](ま)ちて乃[5]ち駕去せり。傳中の人が門の者に遙語[6]して之を閉ず。門長曰ふ:「天下の詎[7]ぐことを知る可し,而して長者を閉ざさん乎?」遂に南に出づるを得る。晨夜兼行し,霜雪を蒙犯し,〈九〉天の時は寒く,面(おもて)は皆破れ裂けり。呼沱河に至る,〈十〉船無く,適(たまたま)冰の合するに遇いて,過ぐるを得る,〈十一〉未だ數車畢[8]らざりて陷る[9]。進みて下博城西に至る,〈十二〉遑惑して之く所を知らず。白衣の老父が道旁に在ること有りて,〈十三〉指して曰ふ:「努力せよ!〈十四〉信都郡は長安が為に守せり,此を去ること八十里なり。」〈十五〉光武即ち馳せて之に赴く,信都太守任光開門して出迎す。世祖因りて旁縣より發す,四千人を得る,先に堂陽、貰縣を擊ち,皆之を降す。〈十六〉王莽の和成卒正邳彤も亦た郡を舉げて降る。〈十七〉又た昌城の人劉植,宋子の人耿純,〈十八〉各宗親子弟を率し,其の縣邑に據りて,以て光武を奉る。是に於て北に下曲陽を降し,〈十九〉衆を稍[10]く合し,樂[11]しみて附[12]ふ者數萬人有るに至る。

 

〈一〉縣名なり,涿郡に屬す,今の幽州縣也。本字は「契」に從[13]ふに從りて「邑」と,說文に見ゆ。(集解)先謙曰ふ。今の順天府大興県治なり

〈二〉《說文》に曰ふ:「檄は,木簡を以て書と為す,長尺二寸。之を謂ひて檄とす,以て徵召せる也。」又た曰ふ:「財有る所を以て求むるを購ふと曰ふ。」魏武奏事に曰ふ:「若し急有らば,即ち雞羽を以て插し,之を謂ひて羽檄とす。」

〈三〉廣陽王は名を嘉,武帝の五代孫なり。

〈四〉趣,急也,讀みて「促す」と曰ふ。

〈五〉縣名なり,安平國に屬す,饒河之陽に在り,故城は今の瀛州饒陽縣東北に在る。(集解)先謙曰ふ。今の深州饒陽県の東に在る。史記に趙の長安君は饒を以て封ぜらる也。

〈六〉客館也。傳の音は知戀の反なり,下も同じ。

〈七〉椎の音は直追の反なり。

〈八〉紿,欺誑せるを言う也,音殆。

〈九〉蒙,冒也。

〈十〉《山海經》に云ふ:「太戲之山は,滹沱之水の出づる焉。」代州繁畤縣の東に在り,流は定州深澤縣東南を經る,即ち光武の度るを所[14]める[15]なり度るところの處なり,今も俗に猶ほ之を謂ひて度ること危うき口なりと。臣賢が案ずるに:呼沱河は舊くは饒陽の南に在り,魏太祖曹操至りて饒河に因る故き瀆[16]を決[17]め,北に新しく溝して水を注がしむ,今は饒陽縣北に在る所以なり。

〈十一〉《續漢書》に曰ふ:「時、冰り滑りて馬が僵[18]る,乃ち各囊を以て沙を盛り,冰上に布きて度る焉。」

〈十二〉下博は,縣なり,信都國に屬す。博水之下に在り,故に下博と曰ふ。故城は今の兾州の下博縣の南に在り。(集解)恵棟曰ふ李吉甫云ふ県南二十里に在り,応劭は太山に博有る故に此れに下を加ふと。先謙曰ふ今の深州東南三十里に在り。

〈十三〉老父蓋し神人也,今の下博縣西に猶祠堂有り。(集解)恵棟曰ふ酈元云ふ漢氏中興の始まる基ひは之矣。尋く老父を求むるも得ず議者以為らく神と。

〈十四〉(集解)恵棟曰ふ公羊伝に尚ほ子(なんじ)の身を速[19]むに於て有りと何休云ふ尚ほ猶ほ努力するがごとし。

〈十五〉信都郡は,今の兾州也。(集解)恵棟曰ふ時の更始は長安に都せる故に長安が為に守せりと云ふ。先謙曰ふ前志に信都国は景帝二年に広川国為り宣帝の甘露三年に故に復す。然れども百官表の成帝の永始二年に信都太守有り,是は国が郡と為る矣。哀帝の建平二年に定陶王景を徙して信都王と為す。則ち信都を国と為す莽簒ひて貶めて公と為す明年に廃して則ち国を又た郡と為す此文は互ひに証す可し。

〈十六〉堂陽及び貰は並び鉅鹿郡に屬す。堂陽は堂水之陽に在り,今の兾州縣なり,故城は今の兾州鹿城縣西南に在り。貰の音は時夜の反なり。(集解)先謙曰ふ堂陽今の冀州新河県西に在り貰県は今の保定府束鹿県西南に在り後漢省きて鄡に入る。

〈十七〉《東觀記》に曰ふ:「王莽鉅鹿を分けて和成郡を為す。」卒正は,職は太守が如し。

〈十八〉昌城は,縣なり,信都國に屬す,故城は今の兾州西北に在り。宋子は,縣なり,鉅鹿郡に屬す,故城は今の趙州平棘縣北に在り。(集解)先謙曰ふ昌城は今の冀州西北に在り、後漢は阜城と改めて安平国に属す。宋子は今の趙州北に在り。後漢は省きて平棘に入れる。城は当に成と為すべし、城、成亦た作るに通ず。

〈十九〉縣名なり,鉅鹿郡に屬す。常山郡に上曲陽有り,故に此を下と言ふ。(集解)先謙曰ふ今の正定府晋州西に在り。

 

●字釈

[1]【轅】ながえ、車のかじ棒。車体の左右から二本でていて、その先端の横木に牛馬を付けて引っ張らせる。(987頁)

[2]【椎】②うつ、たたく(512頁)

[3]【通】とおり。(1000頁)あるいは単純に鼓をうつ量詞と解すべきか。

[4]【乆】「久」の俗字。①とどめる。とまる。②待つ。遅れる。(24頁)

[5]【乃】すなわち。㋐そこで。上を受けて下文をおこす助字。(24頁)

[6]【遙語】『新字源』にそのものの項目はないのだが、慣用的用法であると思われるためここにわけて記す。遠くに語りかける意。

[7]【詎】いたる、ふせぐ(924頁)

[8]【畢】おわる。ことごとく。(673頁)

[9]【陷】おちいる。くぼむ、おちこむ、しずむ、くずれる、せめおとされる。(1067頁)

[10]【稍】ようやく。(734頁)

[11]【楽】たのしい。よろこばしい。心にかなう。やすらか(513頁)

[12]【附】つきしたがう。(1065頁)

[13]【從】より。したがう(350頁)

[14]【所】處に同じ(450頁)→【處】きめる(107頁)

[15]【處】ところ(107頁)

[16]【瀆】みぞ、耕地に用水を通すみぞ。(612頁)

[17]【決】せきとめる。ひらく。(561頁) 

[18]【僵】たおれる。(81頁)

[19]【速】つつしむ。(999頁)

 

●訳文

 二年正月,光武は王郎が新たに起こるのを見て,すぐに北に向かい薊を訪れた。〈一〉王郎は檄文を発して光武を十萬戶の懸賞金をかけ〈二〉そのことから広陽王の子である劉接は〈三〉王郎に応じて薊の中から兵を起こした,城内は擾乱し,転げ驚き恐れあった,邯鄲の使者がいまにも来ようということが伝わって,太守以下皆が出迎えた。これに乗じて光武は急ぎ馬車に乗って南門を突破した,〈四〉朝夕を問わず城邑には敢えて入ることなく,道傍で野宿した。饒陽に至ると,〈五〉官属は皆食べるものに乏しく。光武はすぐに自ら邯鄲の使者を自称して,傳舍(駅伝制の駅舎)に入る。〈六〉傳吏はすぐに食事を勧め,從者は飢えて,これを爭奪した。傳吏はその偽りを疑って,すぐに鼓を打つこと数十回,〈七〉嘘をついて「邯鄲の將軍が来た」と言い,〈八〉官属は皆顔色を悪くした。光武は馬車に乗って逃げようとしたが;すでにそうやって恐れても免れられない事を知り,しずしずと戻りすわって,言った:「では、邯鄲の将軍に入ってもらいたい。」まてど来なかったために馬車に乗って去った。駅の中の人が門の者に声をかけ、門を閉ざした。門長は言った:「天下が(彼を)防ぐのか、知るべきだろう,どうして長者を閉じ込めておけようか?」遂に南に脱出することが出来た。昼夜兼行し,霜や雪をかき分け,〈九〉天の時はさむく,顔は皆凍傷を負っていた。呼沱河に到着したが,〈十〉船が無く,たまたま河が凍ることで,通過することができたが,〈十一〉未だ何台かの馬車は渡れない内に氷が割れ落ちてしまった。進んで下博城西に至ったが,〈十二〉ゆくべきところがわからず惶惑していた。白衣の老父が道旁に現れて,〈十三〉指さして言った:「努力せよ!〈十四〉信都郡は長安の為に固守している,ここを去ること八十里である。」〈十五〉光武はこれを聞いてすぐに馳せてそこへ向かった,信都太守の任光は彼を開門して出迎えた。世祖はこれによって旁縣より兵を徴発し,四千人を得て,先に堂陽、貰縣を撃ち,皆之を降す。〈十六〉王莽の和成卒正邳彤もまた郡を挙げてこれに降った。〈十七〉また昌城の人劉植,宋子の人耿純,〈十八〉おのおの宗親子弟を率いて,その縣邑を占拠して,光武を支持した。これによって北に向かって下曲陽を降し,〈十九〉衆をようやくあわせて,自ら光武に付き従う者が数万人有るに至った。

 

〈一〉縣名である,涿郡に属す,今の幽州縣である。本の字は「契」であることによって「邑」であると,說文に見える。(集解)先謙はこういっている。今の順天府大興県治であると。

〈二〉《說文》にこういっている:「檄は,木簡を使って文書を作る,長さは二寸。これを檄といった,これによって徵召するのである。」またこういっている:「財力があることによって求めることを購うという。」魏武奏事にはこういっている:「もし急変があれば,すぐに鶏の羽をこれに差し,これを羽檄という。」

〈三〉廣陽王は名を嘉といい,武帝の五代孫である。

〈四〉趣は,急である,これを読んで「促す」という。

〈五〉縣名である,安平國に属す,饒河之陽にあり,故城は今の瀛州饒陽縣東北にある。(集解)先謙はこういっている。今の深州饒陽県の東にある。史記に,趙の長安君は饒に封じられたとある。

〈六〉客館である。傳の音は知戀の反切である,この次の文の傳も同じである。

〈七〉椎の音は直追の反切である。

〈八〉紿は,欺きたぶらかすを言うのである,音は殆である。

〈九〉蒙は,冒である。

〈十〉《山海經》にこうある:「太戲之山は,滹沱之水の源であるか。」代州繁畤縣の東にあり,流れは定州深澤縣東南をへる,すなわち光武が渡った際の場所である,今も民間ではここのことを渡ることが危ない場所であると言っている。臣である私李賢が案ずるに:呼沱河はふるくは饒陽の南にあったが,魏太祖曹操の頃、饒河による古い溝をせき止めて,北に新しく溝を作って水を注がせた,今饒陽縣の北に流れがあるのはこのことからである。

〈十一〉《續漢書》にこういっている:「そのとき、氷が滑って馬が倒れた,すぐにおのおの袋に砂を詰めて盛り,氷上に敷き詰めてわたったか。」

〈十二〉下博は,縣である,信都國に屬している。博水之下にあり,故に下博という。故城は今の兾州の下博縣の南にある。(集解)恵棟は李吉甫が言っている事を引いてこういった。県南二十里にあり、応劭が太山に博が有ってだからこれに下を加えたのだと。先謙はこういっている。今の深州東南三十里にある。

〈十三〉老父は神人だろうか,下博縣西に今もなお祠堂がある。(集解)恵棟が酈元のいうことを引くには、「漢の中興の始まる基礎はこれだろうか」と。ひろく老父を求めたがあうことが出来なかった。議者は神だと思うとした。

〈十四〉(集解)恵棟はこういっている。公羊伝に「なお君の身を慎むことにあるのだ」と。何休はこういっている「さらにさらに努力することのようだ」と。

〈十五〉信都郡は,今の兾州である。(集解)恵棟はこういっている。この時の更始帝は長安を都としているが故に長安のために守っているというのだと。先謙はこういっている。前志に信都国は景帝二年に広川国となり、宣帝の甘露三年にもとにもどした。しかし百官表の成帝の永始二年に信都の「太守」があり、これは国が郡となっていたのだろう。哀帝の建平二年には定陶王景をうつして信都王としている。これによって信都がまた国となった。王莽の簒奪にあって位をおとして公とした。明年に廃して国をまた郡とした。この文は互いに証すべきである。

〈十六〉堂陽及び貰はともに鉅鹿郡に属している。堂陽は堂水の北にあり,今の兾州縣である,故城は今の兾州鹿城縣西南にある。貰の音は時夜の反切である。(集解)先謙はこういっている。堂陽は今の冀州新河県の西にあり,貰県は今の保定府束鹿県の西南にあり,後漢はこれを省いて鄡に編入した。

〈十七〉《東觀記》にはこうある:「王莽は鉅鹿を分けて和成郡を作った。」卒正は,太守のような職種である。

〈十八〉昌城は,縣である,信都國に属している,故城は今の兾州西北にある。宋子は,縣である,鉅鹿郡に属している,故城は今の趙州平棘縣北にある。(集解)先謙はこういっている。昌城は今の冀州西北にある、後漢は阜城と改めて安平国に属させた。宋子は今の趙州の北に在り。後漢は省いて平棘に編入させた。城は当に成とすべきだろう、城と成はまた書くときに通用していた。

〈十九〉縣名である,鉅鹿郡に属す。常山郡に上曲陽という県がある,故にこれを下曲陽というのだ。(集解)先謙はこういっている。今の正定府晋州西にある。

 

●私見

 色々難産な箇所が多かったです。

 アレだよね。なんか読んでると注釈者に親近感が勝手に湧いてくるこの謎仕様。なんか順天府とかあーあーあそこねって感じになってくる。知らないけど。

>本字は「契」從ふに從りて「邑」と,說文に見ゆ。

 この部分めっちゃ悩んでこうしました。從~從~構文って有った気がするけど覚えてない……。というかアレですかね。なんなんでしょうこの文。中国語サイトの説文調べても出てこないんですけど。

>即ち光武の度るを所(き)める處なり,

 いいたいことはよくわかるんだけど訓読できないぞこれと思いながら、無理矢理字釈の所で辻褄を合わせました。所と處が逆ならそのまま読めたのに……。もっと良い案あったらプリーズ。

>〈十三〉

 全文に(小並感)つけたい。

 

 取りあえずはこんな感じで多分後から沢山訂正入る(震え声)

 

  あと、駅伝の話はこの部分の中でも随一といっていいほど物語的だなぁ。門を閉じて天下の帰趨を見守ろうとする門長、お前何者だ一体。

 

●訂正

ツッコミ頂けました。

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster

@ookuranoharu「薊」については「本来の字は「契+おおざと」であった」という意味のことを言いたいように思われますが、今のところ説文解字でそれらしいところを見つけ出せません。他の何かのことでしょうか。

 

 そうですよね、辞書特有のアレですよね(分かってない顔)。

 ただ仰るとおり実際そんな字も思い当たりませんし、説文の「薊」を引いても出てきません。すぐろさんに教えて貰った中国サイトで説文関係の注釈調べまくってもこの絡みの字は出て参りませんでした。なんなんでしょうねここ。

 タイムスリップして李賢を殴ってくる方が早い気がしてきました。

 

 また、「即光武所度處」についてもっと良い案を頂けました。

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster

@ookuranoharu あと、あくまでも浅学独流の私の案ということでよろしければ、「光武の度るところの処なり」といった読み方をしたいな、と思います

 

  容赦なく頂いて行きたいと思います。

 

(2016/12/31 1:18 初稿)

(2016/12/31 1:56 追記&題改稿)

(2016/12/31 2:43 微改訂)

(2017/01/13 20:36 訂正&新テンプレに改正)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆

     中華書局『後漢書集解』選:王先謙