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二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 河北道中膝栗毛

 光武、河北道中膝栗毛、その3 

 まぁアレです。ようやっと光武も土地を得て人心地ついた感じです。

 そしてまーた書き方変えてます。

 

●本文

復北擊中山,〈中山,國,一名中人亭,故城在今定州唐縣東北。張曜中山記曰:「城中有山,故曰中山。」(集解)先謙曰今定州〉拔盧奴。〈縣名,屬中山國,故城在今定州安喜縣。水經注曰:「縣有黑水故池,水黑曰盧,不流曰奴,因以為名。」(集解)先謙曰今定州治漢中山国莽簒之後国皆為郡注中山国由後事据続志為言〉所過發奔命兵,〈《前書》音義曰:「舊時郡國皆有材官、騎士,若有急難,權取驍勇者聞命奔赴,故謂之『奔命』。」〉移檄邊部,共擊邯鄲,郡縣還復響應。南擊新市、真定、元氏、防子,皆下之,〈新市,縣,屬鉅鹿郡,故城在今恒州東北。元氏、房子,屬常山郡,並今趙州縣也。防與房古字通用。(集解)恵棟曰案隷法房字其戸皆在側或作防及昉者皆誤也先謙曰官本注無同字新市在今新薬県西南県志四十五里新城鋪真定今正定県元氏今元氏県並属正定府房子在今常州高邑県西南〉因入趙界。

時王郎大將李育屯柏人,〈縣名,屬趙國,今邢州縣,故城在縣之西北。(集解)先謙曰在今順徳府唐山県西〉漢兵不知而進,前部偏將朱浮、鄧禹為育所破,亡失輜重。光武在後聞之,收浮、禹散卒,與育戰於郭門,大破之,盡得其所獲。育還保城,攻之不下,於是引兵拔廣阿。〈縣名,屬鉅鹿郡,故城在今趙州象城縣西北。(集解)先謙曰在今趙州隆平県東県志十二里旧城村〉會上谷太守耿況、漁陽太守彭寵〈上谷,郡,故城在今媯州懷戎縣。漁陽,郡,在漁水之陽,今幽州縣。(集解)恵棟曰東観記上圉邯鄲未下彭寵遺米糒魚塩以給軍糧先謙曰上谷郡治沮陽今宣化府懐来県南漁陽郡治漁陽今順天府密雲県西南〉各遣其將吳漢、寇恂等將突騎來助擊王郎,〈突騎,言能衝突軍陣。(集解)何若瑶曰前書刑法志是猶以鞿而御駻突如淳注突悪馬也突騎言衝突如悪馬〉更始亦遣尚書僕射謝躬討郎,〈漢官儀曰:「尚書四員,武帝置,成帝加一為五。有常侍曹尚書,主丞相御史事;二千石尚書,主刺史、二千石事;戶曹尚書,主人庶上書事;主客尚書,主外國四夷事;成帝加三公尚書,主斷獄事。僕射,秦官也。僕,主也。古者重武事,每官必有主射以督課之。」謝躬為尚書僕射。(集解)劉攽曰注有侍曹尚書案前書皆太常侍曹少一常字先謙曰官本考証云前書作常侍曹尚書無太字〉光武因大饗士卒,遂東圍鉅鹿。王郎守將王饒堅守,月餘不下。郎遣將倪宏、劉奉〈倪音五兮反。〉率數萬人救鉅鹿,光武逆戰於南䜌,〈縣名,屬鉅鹿郡,故城在今邢州柏人縣東北。左傳齊國夏伐晉取欒,即其地也。其後南徙,故加「南」。今俗謂之倫城,聲之轉也。䜌音力全反。(集解)先謙曰在今順徳府鉅鹿県北〉斬首數千級。四月,進圍邯鄲,連戰破之。五月甲辰,拔其城,誅王郎。〈(集解)何焯曰誅郎則河北定光武始有土〉收文書,得吏人與郎交關謗毀者數千章。〈(集解)恵棟曰東観記得吏民毀謗公言可撃者数千章漢律曰與罪人交関三日以上皆応知情胡三省云関通也王幼学云交結関通也〉光武不省,會諸將軍燒之,曰:「令反側子自安。」〈反側,不安也。詩國風曰:「展轉反側。」〉

 

●書き下し

 復た北に中山を撃つ,〈一〉盧奴を抜く。〈二〉過ぐる所より奔命の兵を發す,〈三〉檄を邊部[1]に移し,共に邯鄲を撃つ,郡縣還りて復た響應[2]せり。南に新市、真定、元氏、防子を撃ち,皆之を下す,〈四〉因りて趙界に入る。

 時の王郎の大將李育は柏人に屯し,〈五〉漢兵は知らず而進み,前部偏將朱浮、鄧禹は育が為破る所となり,亡げて輜重を失ふ。光武後ろに在りて之を聞き,浮、禹の散卒を収め,育と郭門に於て戦ひ,之を大破し,盡く得其の獲る所を得たり。育は還りて城を保つ,之を攻めるも下せず,是に於て兵を引きて廣阿を抜く。〈六〉上谷太守耿況、漁陽太守彭寵に会ひ〈七〉各其將吳漢、寇恂等を遣りて突騎を将わしめ、王郎を撃つ助けに来れり,〈八〉更始は亦た尚書僕射謝躬を遣りて郎を討たしめ,〈九〉光武は士卒を大ひに饗するに因りて,遂に東に鉅鹿を圍[3]む。王郎の守將王饒は堅く守り,月餘下せず。郎は将倪宏、劉奉〈十〉を遣りて數萬人を率わしめ鉅鹿を救ふ,光武は南䜌に於て逆戦し,〈十一〉首を斬ること數千級。四月,進みて邯鄲を圍む,連戰して之を破る。五月甲辰,其城を抜き,王郎を誅す。〈十二〉文書を収め,吏人與郎の交關[4]し謗毀[5]せる者數千章を得る。〈十三〉光武は省みず,諸將軍に会ひて之を燒き,曰ひて:「反側子を自安せしむ。」と。〈十四〉

 

〈一〉中山は,國なり,一名を中人亭といふ,故城は今の定州唐縣東北に在り。張曜の中山記に曰ふ:「城中山有り,故に中山と曰ふ。」(集解)先謙曰ふ今の定州なり。

〈二〉縣名なり,中山國に属し,故城は今の定州安喜縣に在る。水經注に曰ふ:「縣に黑水の故き池有り,水の黑きを盧と曰ふ,流れざるを奴と曰ふ,因みて以って名と為す。」(集解)先謙曰ふ今の定州治は漢の中山国なり。莽簒之後、国は皆な郡と為す。注の中山国は後事たる続志の為す言に据りて由とするなり。

〈三〉《前書》音義に曰ふ:「舊時は郡國に皆材官、騎士有り,若し急難有らば,権(かり)[6]驍勇の者を取り、命を聞きて奔り赴く,故に之を『奔命』と謂ふ。」

〈四〉新市は,縣なり,鉅鹿郡に属す,故城は今の恒州東北に在る。元氏、房子は,常山郡に属す,並びに今の趙州縣也。防與房は古字通用せり。(集解)恵棟曰ふ隷法を案ずるに房字は其の戸は皆な側に在り,或ひは防に作る及び昉とする者は皆誤り也。先謙曰ふ官本注に同字なし。新市は今の新薬県西南に在り,県志に四十五里にして新城鋪あり[7]。真定は今の正定県,元氏は今の元氏県なり,並びに正定府に属す。房子は今の常州高邑県西南に在り。

〈五〉縣名なり,趙國に属す,今の邢州縣なり,故城は縣之西北に在る。(集解)先謙曰ふ今の順徳府唐山県西に在る。

〈六〉縣名なり,鉅鹿郡に属す,故城は今の趙州象城縣西北に在り。(集解)先謙曰ふ今の趙州隆平県東に在り。県志に十二里旧き城村ありと

〈七〉上谷は,郡なり,故城は今の媯州懷戎縣に在り。漁陽は,郡なり,漁水之陽に在り,今の幽州縣なり。(集解)恵棟曰ふ東観記に上は邯鄲を囲むも未だ下せず彭寵は米糒魚塩を遺し,以て軍糧を給す。先謙曰ふ上谷郡治の沮陽は今の宣化府懐来県南に在り漁陽郡治の漁陽は今の順天府密雲県の西南にあり。

〈八〉突騎は,能く軍陣に衝突せるを言ふ。(集解)何若瑶曰ふ前書の刑法志に猶ほ鞿[8](きずな)を以て而駻[9]突を御するがごときを是とす。如淳が注するに,突は悪馬也。突騎は悪馬が如く衝突せるを言ふ。

〈九〉漢官儀に曰ふ:「尚書は四員なり,武帝が置き,成帝が一を加え五と為す。常侍曹尚書有り,丞相御史の事を主る;二千石尚書は,刺史、二千石の事を主る;戶曹尚書は,人庶[10]上書の事を主る;主客尚書,外國四夷の事を主る;成帝は三公尚書を加ふ,斷獄の事を主る。僕射は,秦官也。僕は,主る也。古への者は武事を重んじ,官毎に必ず射を主るもの有りて督するを以て之に課す。」謝躬は尚書僕射と為る。(集解)劉攽曰ふ注に侍曹尚書有るも,前書は皆太常侍曹の常字が一つ少なきなり。先謙曰ふ官本を考証して云ふに前書は常侍曹尚書に作り、無きは太字なり。

〈十〉倪の音は五兮の反なり。

〈十一〉縣名なり,鉅鹿郡に属す,故城は今の邢州柏人縣東北に在り。左傳の齊の國夏[11]が晉を伐ち欒を取る,即ち其地也。其の後南に徙り,故に「南」を加ふ。今の俗に之を倫城と謂ふ,聲は之轉じたる也。䜌の音は力全の反なり。(集解)先謙曰ふ今の順徳府鉅鹿県北に在り。

〈十二〉(集解)何焯曰ふ郎を誅するは則ち河北が定まるは光武が土有るの始まりなり。

〈十三〉(集解)恵棟曰ふ、東観記に吏民の謗毀を公言し撃つ可き者数千章を得ると。漢律曰ふ罪人と交関すること三日以上にして皆情を知り応ずるなりと。胡三省云ふ、関通[12]也。王幼学云ふ交結関通也。

〈十四〉反側は,不安也。詩の國風に曰ふ:「展轉反側[13]。」と。

 

●字釈

[1]【邊部】辺境の事と思われる。

[2]【響應】響きが声に応じて起こるように、人の言動に応じてすぐに行動を起こす。(1100頁)

[3]【圍】囲の異体字。かこむ。めぐらす。とりまく。「包囲」(204頁)

[4]【交關】①交通する②取引する⑤つてを求めてその人に自分の意志を言ってもらう。(37頁)

[5]【謗毀】そしる、また、そしり(941頁)

[6]【権】臨時に。(522頁)

[7]【鋪】宿場(196頁)

[8]【鞿】きずな。馬の頭部や口につける。(1096頁)

[9]【駻】①あらうま。暴れ馬。【駻突】ならされていない馬、あら馬。=悍馬(1127頁)

[10]【人庶】【庶】①に「衆庶」とある。故にあまたの人。もろもろの人と考える。(619頁)

[11]【國夏】人名。

[12]【関通】かかわりあう。(1060頁)

[13]【展轉反側】心になやみがあり、ねむることができずに、何度も寝返りをうつこと(988頁)

 

●訳文

 復た北の中山を攻撃した,〈一〉盧奴を抜いた。〈二〉通ったところからは「奔命」の兵を徴発し,〈三〉檄を辺境にも送り,共に邯鄲を撃つ,郡縣に戻ってまたすぐに進発した。南に新市、真定、元氏、防子を撃ち,皆これを下した,〈四〉これによって趙国の境界に入った。

 この時、王郎の大將である李育は柏人に駐屯し,〈五〉漢の軍はそれを知らずに進み,前部偏将朱浮、鄧禹は李育に破られ,敗走して輜重を奪われた。光武は後方でこれを聞き,朱浮、鄧禹の元部隊兵を接収して李育と城郭の門で戦い,これを大破し,ことごとく奪われたものを回収した。李育は城に戻って防備を固め,光武はこれを攻めたが下せなかったため,兵を引いて廣阿を落城させた。〈六〉上谷太守耿況、漁陽太守彭寵に会い〈七〉おのおのがその將吳漢、寇恂等を派遣して突騎の将とし、王郎を撃つ助けに来させた,〈八〉更始はまた尚書僕射謝躬を派遣して王郎を討たせようとし,〈九〉光武は士卒を大いに饗応することで(支持を固め),遂に東に進軍して鉅鹿を包囲した。王郎の守將王饒は堅く守り,一月以上守り抜いた。王郎は将倪宏、劉奉〈十〉を派遣して数万人を率いさせて鉅鹿の救援に送った。光武は南䜌で迎撃し,〈十一〉数千人の首級を得た。四月,進軍して邯鄲を包囲し,連戰してはこれを破った。五月甲辰,邯鄲城を陥落させ,王郎を誅殺した。〈十二〉文書を収め,吏人と王郎が交換しあった誹謗を含む文書を数千章得た。〈十三〉光武はこれを省みることなく,諸將軍に会ってこれを焼き,:「不安で眠れぬもの達を安心させよう。」といった。〈十四〉

 

〈一〉中山は,國で,一名を中人亭といった,故城は今の定州唐縣東北に在った。張曜の中山記にいう:「城中に山有り,故に中山という。」(集解)先謙はこういっている。今の定州である

〈二〉縣名である,中山國に属しており,故城は今の定州安喜縣に在る。水經注にこうある:「県に水の黒い古い池があり,水が黒いことを盧といった,流れないことを奴といった,それに因んで名付けられた。」(集解)先謙はこういっている。今の定州治は漢の中山国である。王莽の簒奪以降、国は皆な郡となった。注に中山国とあるのは、のちに書かれた続漢書の志の記述に据ったことが理由である。

〈三〉《前書》音義ににはこうある:「旧時には郡國に皆材官、騎士が置かれていた,もし急難があれば、,臨時に驍勇を持つ者が命令を聞いて奔り戦場に赴いた,故にこれを『奔命』といった。」

〈四〉新市は,縣である,鉅鹿郡に属している,故城は今の恒州東北にある。元氏、房子は,常山郡に属している,双方とも今は趙州縣である。防と房は古字では通用していた。(集解)恵棟はこういっている隷法を案ずる限り、房字の戸部分は皆横にあり,あるいは防、昉と書かれているが皆誤りである。先謙はこういっている。官本注には同じ字はない。新市は今の新薬県西南にあり,県志によると四十五里ほどいけば新しい宿場町がある。真定は今の正定県,元氏は今の元氏県である,ともに正定府に属している。房子は今の常州高邑県西南にある。

〈五〉縣名である,趙國に属している,今の邢州縣である,故城は縣の西北にある。(集解)先謙はこういっている。今の順徳府唐山県西にある。

〈六〉縣名である,鉅鹿郡に属している,故城は今の趙州象城縣西北にあった。(集解)先謙はこういっている。趙州隆平県東にあった。県志に十二里旧い城村があると。

〈七〉上谷は,郡である,故城は今の媯州懷戎縣にある。漁陽は,郡である,漁水之陽にある,今の幽州縣である。(集解)恵棟はこういっている。東観記に「主上は邯鄲を囲んだがなかなか下せなかった。彭寵は米・糒・魚・塩を残して行き、これによって軍糧を補給した。先謙はこういっている。上谷郡治の沮陽は、今の宣化府懐来県南にある漁陽郡治の漁陽は今の順天府密雲県の西南にあり。

〈八〉突騎は,よく軍陣に衝突することをいう。(集解)何若瑶はこういっている。前書の刑法志には、絆をもって悍馬の突撃を制御できるものをこれだとした。如淳が注するに,突は悪馬のことである。突騎は悪馬のように衝突することをいう。

〈九〉漢官儀によると:「尚書の定員は四人,武帝が置き,成帝が一人増やして五人とした。常侍曹尚書は,丞相御史のことをつかさどった;二千石尚書は,刺史、二千石のことをつかさどった;戶曹尚書は,人庶上書の事をつかさどった;主客尚書,外國四夷の事をつかさどった;成帝は三公尚書を加え,斷獄の事をつかさどらせた。僕射は,秦の官である。僕は,つかさどることである。過去の人々は軍事を重んじ,官ごとに必ず射撃をつかさどる人間がいて、これを監督する様子を見て考課した。」謝躬は尚書僕射となった。(集解)劉攽はこういっている。侍曹尚書があるが,前書は皆太常侍曹の常の字が一つ少ない。先謙はこういっている。官本を考証して見る限りでは,前書は常侍曹尚書と書かれていて,無いのは太の字である。

〈十〉倪の音は五兮の反切である。

〈十一〉縣名である,鉅鹿郡に属している,故城は今の邢州柏人縣東北にある。左傳にある,斉国の国夏が晋国を伐ち欒を取った,その土地のことである。後に南に集落が移り,故に名前に「南」を加えられた。今では俗にこれを倫城と呼ばれており,音が変わってしまっている。䜌の音は力全の反切である。(集解)先謙はこういっている。順徳府鉅鹿県北にある。

〈十二〉(集解)何焯はこういっている。王郎を誅し河北が定まったというのは、光武が初めて自らの土地を持ったということだ。

〈十三〉(集解)恵棟はこういっている、東観記に吏民の中で誹謗を公言し討つべき証拠、数千章を得ると。漢の法律には三回以上罪人と文書を交換し関わったのなら、事情を知った上で応答しているとするとある。胡三省はこういっている、関わり通じることであると。王幼学云ふ交結し関わり通じることである。

〈十四〉反側は,不安のことである。詩の國風にはこういっている:「展轉反側。」と。

 

●私見

 展轉反側は普通に日本語なんですね、私の語彙のなさがバレますが、新字源で調べた後にネットから念の為軽く検索したら『大辞林』にも載っていてビックリしました。用例は戦前戦中期の方々が活躍していた時代に多いです。やはり四書五経と前四史は義務教育でやるべきじゃないですかね。既に昔の人の基礎教養が分からない気が致します。

 今から列伝を繋げて示していく部分をネタバレするのもアレですが、先に言ってしまいますと、この時の光武軍の基本的作戦は幽州と冀州の分断からの王郎司令部撃破にあります。いわゆる、現代の軍事なんかでも基本の一つとして示される分断各個撃破という奴を大々的にやった訳ですね。むじん氏等のネットで公開されているデータで黄河辺りのラインと高地のラインを確認すると、光武が河北戦において初期に落とした城から、鄧晨の居る郡までで黄河から高地山岳地帯までの綺麗な分断ラインが出来るんですよね。

 そこを起点に対戦兵力を限定して王郎を破るのが河北の光武軍の基本線になってきたものと思われます。劉接の件から、劉秀軍は幽州は多くが敵と見なしていたと思いますし、その上で恐らく情報遮断まで気を遣っていたものと思います。それが光武の言った「本当に味方が来るとは思わなかった。」という言葉に収束されてくるわけですね。

 光武の事績について批判的検証をするといった私も、この基本ラインの整い方、整え方の綺麗さについて流石に偶然だとはちょっと思わないですね。それが光武自身の戦略か、麾下の将軍の戦略か、戦略の主体が書かれて居ない場合、司令部の戦略を個人に帰するべきか。といった問題はありますが。どうなんでしょうね、実際吸収させていいものか。伝に帷幄の中に決したとあり、今のところ具体性がある河北の功績があまり見当たらないので、こういった大戦略の多くは鄧禹に帰するべきなのかな、と思うところはあります。鄧禹の場合は子孫が安帝の際に敗者側の外戚に位置しましたから、毀誉褒貶でいえば歴史抹殺刑のような取り扱いを家として受けている可能性も考慮しておきたいところではあります。もちろんその上で「書かれて居ない幕僚の功績を云々しても致し方ない」として、光武の戦略に帰するというのも考えとしては有りであるとも思います。蘇轍の話でもありましたが、光武と鄧禹の戦略は時に対立し、光武は総合的な指揮権を譲らない傾向があるので、断言仕切れぬラインではあると思うのです。

 郭門は一応城郭の門と訳しましたが、実際これは地名ではないんですかね?李賢注の時点でも胡三省注の時点でも王先謙注の時点でも地名と判断されなかったものを考えても致し方ないことやも知れませぬが。

 南䜌の戦については、「不利」くらいは書いても良さそうな気はしますが……、他の本紀で「不利」とある場合、事実上の敗戦で書いている事例が多い為、援軍有って途中で盛り返したこの戦いでそこまで書くと春秋の筆法上余計な誤解を生ずる、といったところでしょうか。戦闘中に突騎が来て盛り返したようですからね。

 しかし、たかがこの程度でひいひい言っている場合ではありませんね。ドンドンやらねば明史に到達するまでにお爺ちゃんになってしまう。

 

(2017/01/13 19:29 初稿)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆

     中華書局『後漢書集解』選:王先謙