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昆陽の戦い中盤上・補足再考

 自明だと思っていたことと、ごく微妙に考え直したことがあるんだけど、ちょっともしかしたら自明じゃ無いかもなので、ここに纏め直します。アマチュアですから、色々な所は甘く見て頂けると助かります。

 まず、大前提。

 前回も言ったけれども、この時の更始帝軍が狙ったのは、潁川に防衛ラインを築いて武関経由で関中に突入すること。つまり、漢の高祖の戦略の再現を行おうとしていた。王邑達には自分たちが楚本軍と想定している赤眉か、潁川経略軍にに拘束させて、隙だらけの関中を狙う。

皆恐惶状態であった,憂いをもって妻子のことを考えた,〈孥は,子である。〉諸々の城に散って帰ろうという意見が大勢を占めた。

  この部分は、単なる劉秀の胆力の神格化。他の諸将は妻子の事を思っていただろうけど、抵抗を諦めている訳じゃ無い。他の諸将には腹案として別の案がある。次の部分でそれを逆に復元可能だからそれを示す。

「今はもう兵糧もなく,そして外から来た敵は強大である,力を合わせてこれを防ぎ,あらゆる手段を使って戦線を支えるべきだ。分散を望んでしまえば、全ての軍から勢いが失われてしまう。宛城はまだ落とすことが出来てないし,〈伯升が宛を包囲しても未だ落とせていない事をいった。〉救援しあう事は難しい,昆陽がすぐ落ちて,これが早く伝わってしまえば,諸将の部曲は勝手に解散してしまうだろう。今は胆力をそこなってしまっているものも居るけれども、共に功名を挙げた我々ではないか,今更それを覆して妻子や財産を守ろうというのか?」

>「分散を望んでしまえば、全ての軍から勢いが失われてしまう」

 この言葉が示すことは、分散した上で、かつ軍の勢いが失われない前提で話し合われていたということだろう。つまり、王鳳、王常らが目指していたのは、諸城に散っての潁川を舞台にしたゲリラ戦だ。斉ではよく豪族による諸城での抵抗及びゲリラ戦があったという話はよく聞くが、まぁ、有名なことではあるけど、劉秀は統一後の検地等でそれに悩まされることになる。恐らく、「漢の長い繁栄による豪族の全国的分布」「王莽が書館などを全国配置してしまったことによる過去の故実教養の共有」によって、兵力を集約運用する決戦主義にはゲリラで対抗できることを諸豪族、諸知識人達は知ってしまった。更にもう一つ、南陽や江夏、新野の豪族達にとって、今まではホームでの戦い。おそらくゲリラに対する成功体験を重ねていっていた。昆陽城は捨てて、ゲリラ戦を行おうというのが、彼らの作戦だ。何故それが妻子を守ることに繋がるかといえば、この時代の豪族軍は妻子を連れていたからだろう。ところが、劉秀はこの状況下におけるその作戦の盲点を指摘する。

 

>「宛城はまだ落とすことができていないし、救援し合う事は難しい」

 地図を確認して貰えばわかりますが、昆陽って完全な南陽との結節点にあるんですよね。隣接する南陽郡の県は葉県です。今の所この2県の位置については腹案はあるものの、ちょっと今までネットで拾える各資料とは違う見解になりそうですが、この事実だけは変わらないでしょう。

 中国歴史地図集側の地図を見ると、宛から魯陽に太い道?が伸びていて、また魯陽から昆陽に向けて河川が伸びているのが分かります。もちろん昆陽が下流にあたります。一方で葉県ルートの方がかなり広い土地を通る事が出来ます。大軍の移動はこちらからしかありません。荊州から潁川のルートのうち、どこから落ちたのかは分かりませんが。水路での移動になれた荊州人士は、最初の攻撃には魯陽からでる水系を利用したんだろうと思いますね。

 また、一方で魯陽が更始帝軍側に落ちたのが昆陽の戦以降が初めて、というのはまずないと思います。魯陽から昆陽へのルートがあることは確実なのと、色んな地図を照らし合わせて見る限り魯陽の北は陽翟等の都市にむけて開けています。援軍が魯陽経由で昆陽を攻撃する可能性、確実に落ちているのは郾と定陵であることを考えると、完全遮断の危険性が怖くて陽翟県の西北まで出て行くなんて無理です、事実上の浸透戦術とはいえ補給線を二線確実に確保するために先に落とすでしょう。

 また魯陽は昆陽戦の時点では王邑軍の帰属下にあるでしょう、この証拠は昆陽後に劉稷が魯陽を攻撃していることが挙げられます。ということで、昆陽、魯陽の二城も連携関係であったと思います。魯陽を落としてから、魯陽の南の水系を両軍はなぞる形で攻略していく方針を元から決めていたのでは無いでしょうか。

 最初、犨県と葉県は昆陽城に従う城なのかと思っていたのですが、州境の問題、現在の地名等顧みると、川で隔てられた南陽盆地の完全な入り口を隔てる城だったと思われます。昆陽の段階では多分王邑側に落ちていないでしょう。

 

 さて、ここで明らかになった盲点というのは前段で語っている趣旨からもうお分かりかと思うのですが、ゲリラ戦で大事な三つの前提が崩れるということです。

①補給ラインの安定

②地元人士の積極的な協力

③ゲリラ戦人士の士気が高いこと

 まず①、昆陽と葉県が落ちればまず完全に南陽と遮断されます。魯陽ルートは上記の理由で使えませんし、昆陽ルートも遮断される事になりますから、補給がなくなるのです。

 次に挙げる②地元人士の積極的な協力、③ゲリラ戦人士の士気が高いこと、はこの遮断によって完全に崩れるということが

>「昆陽がすぐ落ちて,これが早く伝わってしまえば,諸将の部曲は勝手に解散してしまうだろう。」

 という言葉で示されます。何故なら彼らはどこまで行ってもビジターで、南陽や江夏の豪族の部曲なのです。また更始帝軍の潁川人士は昆陽後に降服した人間も多く、諸豪族も含め降服は昆陽後になります。この状況下で押さえつけ続けることは恐らく不可能ですし、昆陽が落ちたことを聞いたら、部曲や潁川豪族が自分たちの首を挙げて投降することも考えられます。ここら辺の意識の違いは「劉秀が南陽劉氏であったこと」から来たものかも知れません。南陽劉氏は翟氏らとともに本当の敗戦を知っているのです。

 そしてこの光武帝が諸将に披瀝した煽動の論の沿革が何故ぼやけているかといえば、後に後漢が統治者として悩まされる側の「離合集散」側にかつて光武帝が居たこと、ひよこさんが指摘されているように、南陽劉氏の中にそれを裏切って報償を受けた人間が居ることが原因でぼやけている事実の一部なのかな、と思います。

 

 もう一つ、グーグルアースで距離を確認したのですが、解放軍出版社の比定する昆陽城のあった河川流域と宛のあった南陽市の距離は低地を通る前提で124km程度(山をぶっちぎった直線距離で110km程度)でした。

 24kmの行軍速度で何もなくても5日かかります。この上南陽盆地と中原平野の間はやや起伏が多く、しかも間に河川が走り、戦闘や野盗があるかも知れず、ともすれば中間点の駅伝の馬が徴発されているだろう事、王莽圏、更始帝圏の勢力圏が斑になっていること、宛に劉玄を迎えたのが6月であることを考えると、伝令や使者の移動はもっと困難なものであったでしょう。5月中に落ちても6月に昆陽軍及び攻囲軍に事実が伝わらない理由がよくわかりました。

(16/12/04 16:39 初稿)