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二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 第1段落

●第1段落

 割と普通の史書の世界に戻って参りました。

 ではとりあえず光武帝紀から参りますかね。

 でもこの文章、何によってるのかが分からない。

 まぁいいや、無料の速訳だしね。

 

世祖光武皇帝諱秀,字文叔,〈禮「祖有功而宗有德」,光武中興,故廟稱世祖。謚法:「能紹前業曰光,克定禍亂曰武。」伏侯《古今注》曰:「秀之字曰茂。伯、仲、叔、季,兄弟之次。長兄伯升,次仲,故字文叔焉。」〉南陽蔡陽人,南陽,郡,今鄧州縣也。蔡陽,縣,故城在今隨州棗陽縣西南。〉高祖九世之孫也,出自景帝生長沙定王發。〈長沙,郡,今潭州縣也。〉發生舂陵節侯買,〈舂陵,郷名,本屬零陵泠道縣,在今永州唐興縣北,元帝時徙南陽,仍號舂陵,故城今在隨州棗陽縣東。事具宗室四王傳。〉買生鬱林太守外,〈鬱林,郡,今郴州縣。《前書》曰:「郡守,秦官。秩二千石。景帝更名太守。」〉外生鉅鹿都尉回,〈鉅鹿,郡,今邢州縣也。《前書》曰:「都尉,本郡尉,秦官也。掌佐守,典武職,秩比二千石。景帝更名都尉。」〉回生南頓令欽,〈南頓,縣,屬汝南郡,故城在今陳州項城縣西。《前書》曰:「令、長,皆秦官也。萬戶以上為令,秩千石至六百石;不滿萬戶為長,秩五百石至三百石。」〉欽生光武。光武年九歲而孤,養於叔父良。身長七尺三寸,美須眉,大口,隆準,日角。〈隆,高也。許負云:「鼻頭為準。」鄭玄尚書中候注云:「日角謂庭中骨起,狀如日。」〉性勤於稼穡,〈種曰稼,斂曰穡。〉而兄伯升好俠養士,常非笑光武事田業,比之高祖兄仲。〈仲,郃陽侯喜也,能為產業。見《前書》。〉王莽天鳳中,〈王莽建國六年改為天鳳。〉乃之長安,受尚書,略通大義。〈《東觀記》曰:「受尚書於中大夫廬江許子威。資用乏,與同舍生韓子合錢買驢,令從者僦,以給諸公費。」〉

 

 世祖光武皇帝の諱は秀,字は文叔なり,〈禮に「祖は功ありて宗は德あり」とあり,光武は中興し,故に廟を世祖と稱す。謚法に:「能く前業を紹ぐを光と曰ひ,禍亂を克定するを武と曰ふ。」伏侯の《古今注》に曰ふ:「秀之字は茂と曰ふ。伯、仲、叔、季,は兄弟之次なり。長兄は伯升,次は仲,故に字は文叔なる焉(か)。」〉南陽は蔡陽の人なり,南陽は,郡,今の鄧州縣也。蔡陽は,縣,故城は今の隨州棗陽縣の西南に在り。〉高祖の九世之孫也,景帝の生みし長沙定王發より出ず。〈長沙は,郡なり,今の潭州縣也。〉發は舂陵節侯買を生む,〈舂陵は,郷名なり,本の屬は零陵の泠道縣なり,今の永州唐興縣の北に在り,元帝時に南陽に徙る,仍(よ)って舂陵と號す,故城は今の隨州棗陽縣の東に在り。事は宗室四王傳に具う。〉買は鬱林太守外を生む,〈鬱林は,郡なり,今の郴州縣なり。《前書》に曰ふ:「郡守は,秦官なり。秩は二千石なり。景帝は名を更めて太守とす。」〉外は鉅鹿都尉回を生む,〈鉅鹿は,郡なり,今の邢州縣也。《前書》に曰ふ:「都尉は,本の郡尉なり,秦官也。守を佐けるを掌る,武を典る職なり,秩は比二千石。景帝は名を更めて都尉とす。」〉回は南頓令欽を生む,〈南頓は,縣なり,汝南郡に屬す,故城は今の陳州項城縣の西に在り。《前書》に曰ふ:「令、長は,皆秦官也。萬戶以上を令と為し,秩は千石から六百石に至る;萬戶に滿たざるを長と為し,秩は五百石から三百石に至る。」〉欽は光武を生む。光武は年九歲にして孤たり,叔父良に養われる。身長は七尺三寸,須眉は美しく,大口,隆準,日角なり。〈隆は,高い也。許負は云ふ:「鼻頭を準と為す。」鄭玄の尚書中候注に云ふ:「日角は庭中に骨起し,日の如き狀を謂ふ。」〉性は稼穡に勤む,〈種を稼と曰ひ,斂[1]を穡と曰ふ。〉而して兄伯升は俠を好み士を養い,常に光武の田業に事ふるを非笑(そしりわら)ひ,高祖の兄の仲に比せり。〈仲は,郃陽侯喜也,能く產業を為す。《前書》に見ゆ。〉王莽の天鳳中,〈王莽は建國六年改めて天鳳と為せり。〉乃ち長安へ之き,尚書を受く,略そ大義に通ず。〈《東觀記》に曰ふ:「尚書を中大夫の廬江の許子威に受く。資用に乏しく,同舍生の韓子と與に合錢して驢を買い,從者が僦われ[2],以て諸公費を給ぜ令む。」〉

 [1]集める、収斂させる

 [2]やとう、かりるの他にやとわれるという意味があると新字源にあった。意味が一番通じる気がするのでこのままとする。

 世祖光武皇帝は諱を秀といい,字は文叔という,〈禮に「祖は功ありて宗は德あり」とあり,光武は中興し,故に廟号を世祖とした。謚法に:「能く前業を紹ぐを光といい,禍亂を克定するを武という。」とある。伏侯の《古今注》に:「秀の字は茂の意味である。伯、仲、叔、季,は兄弟の年次である。長兄は伯升,次は仲であるから,故に字は文叔であろう。」〉南陽郡蔡陽県の人である,南陽は,郡,今(唐)の鄧州縣である。蔡陽は県である。故城は今の隨州棗陽県の西南にある。〉高祖の九世の孫である,景帝の生んだ長沙定王発の子孫にあたる。〈長沙は郡である。今の潭州県である。〉発の子は舂陵節侯買である,〈舂陵は郷名である。もとは零陵の泠道県に属していた,今の永州唐興県の北にあったが,元帝時に南陽に移された,それによって舂陵と言われた,故城は今の隨州棗陽県の東にある。この事は宗室四王伝に書かれている。〉買の子は鬱林太守外である,〈鬱林は郡である。今の郴州県である。《前書》(『漢書』)にいう「郡守は秦の官である。秩は二千石である。景帝は名をかえて太守とした。」〉外の子は鉅鹿都尉の回である〈鉅鹿は郡である。今の邢州県である。《前書》にいう「都尉はもとの郡尉であり,秦の官である。太守の補佐役をつかさどる,武をつかさどる職である。秩は比二千石。景帝は名をかえて都尉とした。」〉回の子は南頓令の欽である,〈南頓は県である,汝南郡に属している,故城は今の陳州項城県の西にある。《前書》にいう:「令、長は,皆秦の官である。一万戸以上の県を治める場合を令とし,秩は千石から六百石ほどである一万戸に満たない場合を長とし,秩は五百石から三百石ほどである。」〉欽の子が光武となる。光武は九才にして父をなくし,叔父の良に養われた。身長は七尺三寸ほどで,須眉は美しく,大口,隆準,日角という顔の相があった。〈隆は高いことをいう。許負がいう「鼻の頭を準という。」鄭玄の尚書中候注にいう:「日角は庭中が骨起し,日の如き狀をいう。」〉性格は稼穡(農事)に勤めていた,〈種を稼といい,集めることを穡という。〉しかし兄の伯升は俠を好んで士を養い,常に光武が農業に精を出すことを嘲笑し,高祖の兄の仲と比べていた。〈仲は,郃陽侯の喜である,能く産業をなした。《前書》に見える。〉王莽の天鳳中,〈王莽は建国後六年目に改元し、天鳳とした。〉長安へいって尚書を学び,おおよそ大義に通じた。〈《東觀記》にいう:「尚書を中大夫の廬江の許子威に授けられた。学費に乏しかったため,同舍生の韓子と一緒に費用をだしあってロバを買い,従者を雇って,諸公費に充当していた。」〉

 なんですかねぇ、訳自体は神話時代より凄い楽なんですけれども、ちょっとこれアレですね、注が多すぎて死ねますね。文辞自体は漢から唐辺りが一番日本人の考える漢文から遠くなくて楽なはずなんですが。

 色々思うところは有るけれど後々動画でも作ったりして自分の考えを述べる機会を作りたいなぁ。アイマスにはニコマスから入った人間としても。

 ここで示されていることの一つは劉秀の家系が決定的に南方人であるということ、もう一つは太学では劉秀が『東観漢記』にある王莽の政策意図を解説したという旨の文や太学で関係した人物達との関わりの記述がなくなっている。ここからは個人的な妄想に過ぎないのだが、韓子は韓歆で許子威は許氏の父なのだろうか。だがもし「同舎生」というのが「同じ師に学んだもの」だとするとどちらかというと韓歆が春秋において「左伝派」で古文派であるところが意味が分からなくなる。ただ今文派が専門を備える一方で古文派は満遍なく学ぶことを良しとするので専門が尚書であることや欧陽歙を擁護したことと矛盾はしないが……また許氏の一族だとすれば許子威の尚書がどの尚書であったのかもまた「欧陽尚書」の問題と絡んで複雑になってくる部分ではある

 

 あともし許貴人の父なら許氏が第一夫人ということも考えられる。何しろ漢の法では30までに結婚しなければ税が取られる。28以上が初婚というのは些か高齢に過ぎる。

 

【11/27追記】 数日前、ひよこさんがこの件は紅陽侯国の絡みではないかとTwitterで発言しておられた。「妻を娶らば~」を「あの子と結婚したかった」という不満であるととる場合、こちらの方が蓋然性が高いようにも思う。

 陰麗華との結婚を、不満とも純粋な憧れともとらずに、劉縯の死に際し、自ら喪を行わず礼を犯すことで皇帝に相応しくない態度を示し、政治的立場を好転させるための政略結婚と捉えると、ただ単純に親戚として自慢していた可能性もあるのではないかという可能性もある。

 (更に踏み込んだことを言えば、陰識が執金吾に就いていることから、この発言そのものが明帝の立場の強化のための脚色という側面があり得る気がしないでもない。)

 (私は光武帝死去前後、功臣の死去が多いのは後継者について隠された兵乱があったからではないかと疑った事があるが……こんな疑って当たり前のことは先行研究がありそうではある。ただ、功臣の兵営が解散されていない事そのものについては先行研究があるので、そこそのものについてはつじつまがあうものの、明帝が外征に熱心でしかも折々に成功している事が、国力の問題と少々矛盾するように思う。単純に功臣達の死去で解放され移転された兵力の向け所が外征であったと考えた方がつじつまが合うし、発見されたのが後漢三国時代である王充の『論衡』も書いていない兵乱があったとするには少々無理があるかも知れない。王充は思いっきり両帝の狭間を生きた官吏であるし、兵乱からも遠い地域に赴任しているので言及出来る立場にあったであろうことは疑い得ない。やはり無理な推量であっただろうか。)

 

(16/11/17 22:41本段落訳了)

(16/11/21 22:52微修正)

 

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆