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二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 持節行大司馬事破虜将軍

 光武、河北へいく。

 光武のワーカホリックタイムの序章といえるだろうか。

 ●本文

及更始至洛陽,乃遣光武以破虜將軍行大司馬事。十月,持節北度河,〈一〉鎮慰州郡。所到部縣,輒見二千石、長吏、三老、官屬,下至佐史,〈二〉考察黜陟,如州牧行部事。〈三〉輒平遣囚徒,除王莽苛政,〈四〉復漢官名。吏人喜恱,爭持牛酒迎勞。

 

〈一〉漢官儀曰:「太尉,秦官也,武帝更名大司馬。」節,所以為信也,以竹為之,柄長八尺,以旄牛尾為其眊三重。馮衍與田邑書曰:「今以一節之任,建三軍之威,豈特寵其八尺之竹,犛牛之尾哉!」《續漢志》曰:「更始時,南方有童謠云:『諧不諧,在赤眉;得不得,在河北。』後更始為赤眉所殺,是不諧也;光武由河北而興,是得之也。」(集解)恵棟曰周礼鄭注今時使者持節賈公彦云竹使符也東観記更始欲以近親巡行河北大司徒賜言上一可用更始以上為大司馬安集河北陳継儒云毦音餌一名兜鍪

〈二〉二千百謂郡守也。長吏謂縣令長及丞尉也。三老者,郷官也。高祖置。《前書》曰:「舉人年五十已上,有修行能帥衆者,置以為三老,每郷一人;擇郷三老為縣三老,與令長丞尉以事相敎,復其傜戍。」《續漢志》曰「每刺史皆有從事史、假佐,每縣各置諸事曹史」也。(集解)劉攽曰注各置諸事曹史文多一字先謙曰州牧所蒞曰部郡守所蒞曰県

〈三〉漢初遣丞相史分刺州,武帝改置刺史,察州,秩六百石。成帝更名牧,秩二千石。漢官典儀曰「刺史行郡國,省察政敎,黜陟能不,斷理冤獄」也。

〈四〉《說文》曰:「苛,小草也。」言政令繁細。禮記曰:「苛政猛於虎。」

 

●書き下し

 更始は洛陽に至るに及び,乃ち光武をして破虜將軍行大司馬事を以て遣らしむ。十月,持節して北に度河し,〈一〉州郡を鎮慰[1]した。所は部縣に到り,二千石、長吏、三老、官屬,下は佐史に至るまでを輒[2](もっぱら)に見て,〈二〉黜陟(ちゅつちょく)[3]考察[4]し,州牧が如く部事を行う。〈三〉輒ち平して囚徒を遣りて平らげ[5],王莽の苛政を除き,〈四〉漢の官名に復した。吏人は喜恱し,爭ひて牛や酒を持ち勞ひ迎ふ。

 

〈一〉漢官儀に曰ふ:「太尉は,秦官也,武帝が大司馬と名を更むる。」節は,信を為す所以也,竹を以て之と為し,柄長は八尺,旄牛[6]の尾を以て為し其の毦[7]は三重なり。馮衍の田邑に與ふる書に曰:「今は一節を以て之に任じ,三軍之威を立てる,豈に其の八尺之竹,犛牛[8]之尾を特に寵する哉!」《續漢志》に曰ふ:「更始時,南方の童謠有りて云ふ:『諧ふ[9]か諧はざるかは,赤眉に在り;得んか得ざらんかは,河北に在り。』後に更始は赤眉の殺す所となり,これは諧はざる也;光武は河北に由り而興り,是は之を得る也。」(集解)恵棟曰ふ周礼の鄭注に「今時の使者は節を持てり」賈公彦は云ふ「竹をして符とせしむ也」東観記「更始は近親を以て河北を巡行させんと欲し,大司徒賜は上を一に用ふ可しと言ふ。更始は上を以て大司馬と為し河北を安集せしむ。」陳継儒云「毦の音は餌,一名は兜鍪[10]なり」

〈二〉二千石は郡守を謂ふ也。長吏は縣の令長及び丞尉を謂ふ也。三老といふ者は,郷官也。高祖が置く。《前書》に曰ふ:「五十已上の人を舉げ,行ひを修むるところ有りて衆を帥するに能ふ者,以て三老と為し,郷每に一人置く;郷三老を擇びて縣三老と為す,令長丞尉と與に事ふるを以て相ひ敎ふ,其の傜戍[11]を復す。」《續漢志》曰「刺史は皆從事史、假佐を有し,縣每に各諸事曹史を置く」也。(集解)劉攽は曰ふ注が「各置諸事曹史」とする文は一字多し。先謙曰ふ州牧の蒞む[12]所を部と曰ひ、郡守の蒞む所を県と曰ふ。

〈三〉漢初は丞相史を遣り分けて州を刺す,武帝は改めて刺史を置く,州を察す,秩六百石。成帝は更めて牧と名す,秩二千石。漢官典儀に曰ふ「刺史は郡國のことをおこなひ刺史は郡國を行き,政敎[13]省察[14]し,黜陟能ふ不らば,能不を黜陟し、冤獄を理[15](ただ)し斷(さば)[16]く」也。

〈四〉《說文》曰:「苛は,小草也。」政令が繁細な事を曰ふ。禮記に曰ふ:「苛政は虎より猛し。」

 

●字釈

[1]【鎮慰】=【鎮安・鎮綏・鎮靖・鎮定】しずめやすんじる。鎮撫

[2]③もっぱら(985頁)

[3]功の無い者を降職・免職にし、功のある者を登用したり昇進させたりする(1166頁)

[4]考え調べる、考えて明らかに知る(806頁)

[5]しずめる、和睦する(321頁)(追記)この場合、「【平議】事の是非曲直を公平に論定する」から援用すべきだろう。「平尚書事」の注に「平」は平議のことを指すとある。(322頁)

[6]長い毛のある牛。からうし。(456頁)

[7](※集解に基づいて字を変更した)毛飾り、羽毛の飾り(550頁)

[8]①からうし、毛の長い牛②黒色の牛(639頁)

[9]②かなう㋐上手くいく(937頁)

[10]「兜鍪」かぶと(90頁)「鍪」かぶとのはち、かぶとのあたまのはまるところ(1048頁)

[11]徴発されて辺境を守備する兵卒(355頁)

[12]のぞむ㋒たずさわる「蒞政」(581頁)

[13]①政治と教化(438頁)

[14]①よく調べて見る。(697頁)

[15]⑦㋐ただす、ととのえる。「整理」㋑はからう。処置する「処理」㋒裁く、裁判する㋓つくろう「修理」(657頁)

[16]①さだめる②さばく(451頁)

 

●訳

  更始は洛陽に至るに及んで,すぐに光武を破虜將軍行大司馬事として派遣した。十月,持節して北に渡河し,〈一〉州郡を鎮撫した。郡県をそれぞれまわり,二千石、長吏、三老、官属,下は佐史に至るまでを専断し,〈二〉功の有無を調べて必要に応じて官位を上下させ,州牧のように郡を直接統治した。〈三〉罪が的確であるかを評議して囚徒をうつし囚徒を派遣して和睦し,王莽の苛政を除いて,〈四〉官名を漢の頃のものに戻した。官吏や民衆はよろこび,争うように牛や酒をもって労って迎えた。

 

〈一〉漢官儀ではこういっている:「太尉は,秦官である,武帝が大司馬と名をあらためた」節は,信頼を示す根拠である,竹を使ってこれを作り,柄の長さは八尺,旄牛[5]の尾をもってつくりかざりは三重になっている。馮衍の田邑にあたえる書にはこうある:「今は一つの節をもって任じられ,三軍の威を立てる,どうして八尺之竹,犛牛の尾を特に重用しようというのだろうか!」《續漢志》にはこうある:「更始の時,南方に童謠があってこう歌っていた:『うまくいくかどうかは,赤眉による;できるかどうかは,河北による。』後に更始は赤眉に殺されたので,これはうまくいかなかったといえよう;光武は河北によって興った,是は之ができたからだ。」(集解)恵棟はこういっている。周礼の鄭注に「現代の使者は節をもっている」賈公彦はこういっている「竹を使って符としているのだ。」東観記「更始は近親をつかって河北に巡行させようと望んで,大司徒賜は一番用いるべきは劉秀であるといった。更始は劉秀を大司馬として河北を安集させた。」陳継儒はこういっている「毦の音は餌,あるいは兜鍪ともいう」

〈二〉二千石は郡守のことをいっている。長吏は縣の令長及び丞尉をいっている。三老というものは,郷の官である。高祖が置いた。《前書》によると:「五十より上の人を選挙し,行いを修めたところがあって、群衆を統率することができるもの,その人を三老として,郷ごとに一人置く;郷三老の中から選んで縣三老とする,令・長・丞・尉に仕えながら教え合う,その兵役は免除される。」《續漢志》にいう「刺史は皆従事史、仮佐を有し,県ごとにおのおの諸事曹史を置く」のである。(集解)劉攽はこういっている注が「各置諸事曹史」とする文は一字多い。先謙はこういっている。州牧の掌管する所を部といい、郡守の掌管する所を県という。

〈三〉漢初は丞相史を分遣して州を監察した,武帝は改めて刺史を置いた,州を監察する,秩六百石。成帝は更めて牧と名付けた,秩二千石。漢官典儀にはこうある「刺史は郡国のことを行い,政教を省察して,官の地位がそのままでも適当であるならば,冤罪を再審理する」「刺史は郡国を巡行し、政治教化の度合いを省察し、官吏を考査して、その能否で位を上下させ、冤罪かどうかを審理する」のである。

〈四〉《說文》によると:「苛は,小さな草である。」とある。政令が複雑で多いことをいう。禮記によると:「苛政は虎より猛し。」とある。

 

 

●私見

>所到部縣,輒見二千石、長吏、三老、官屬,下至佐史,考察黜陟,如州牧行部事。

 これぶっちゃけると州牧素通しで全部細かく政治とその考査を見たって事な訳で、除いた苛政とは一体……うごごご。看板付け替えると民衆は割と騙されるのはいつの時代も変わらないということだろうか。まぁ、州牧の上に統括として持節+三公級を置いて目を光らせるのは更始帝の方針だから劉秀個人についてで言っても仕方のない話だが。

 というか、更始帝のプランとしては、ちょっと鮑永伝とか劉賜の伝とか見ている限りだと、諸方面に統括する責任者を置いて、并州、朔方方面軍の統括を鮑永、河北方面軍の統括を劉秀、河南方面軍(事実上の本隊)の統括を劉賜がやって、劉秀の管轄では皇族による大反乱がおこり、劉賜が赤眉討伐には失敗した、って形なのかなぁと思います。

 ちなみに鮑永が持節尚書僕射行大将軍事、劉秀が持節破虜将軍行大司馬事、劉賜が持節前大司馬です。全員三公級にしたのは州牧を監督する立場にしないといけないからだろうか。三国時代の都督とかの概念に近いのかなぁ。結構先取りしてたのかも。劉秀がこの手の制度を使ったのは張純を補給のために南方に派遣した時だけだったような。

 河北河南に宗族を送っているのは多分現地に諸王やその親族がたくさん居るから宗族じゃないと収まらないと見たんだろうね。更始帝は近親者を送りたいと劉賜に相談したことが劉賜の伝に見える。結局河北は見事に叛乱祭りになったし、赤眉には盛大に負けたけど。

 あと、劉賜が兵を率い関東のことを行うにあたって、丞相から大司馬に転任していることも注視すべきかもしれない。

 

 「囚徒を派遣して和睦する」と訳した部分だけれども「罪が的確であるかを評議して囚徒をうつし」の部分だけれども、どうやら王莽の任じた現職を一部留任している様子にみえるので、これはそういった様々な処罰だとかを妥協したり、前段の黜陟考察によって、反王莽で捕まった人間や更始帝時代の法に触れていない人間のうち牢獄に捕まっている人間を解放して、穏当に処理していくことを言っているのかなぁと思います。というのも、流石に軍による平定の意味で訳しちゃうと、徒隷を督しておらず対異民族にも当たっていないこの時の劉秀が、囚徒を軍として派遣してしまうのは、管轄としておかしくなってしまう気がするので。

【下線部追記】誤訳してても大体の部分では意外となんとかなってるというw

 

 あと、「各置諸事曹史」で一字多いってどこじゃろ。説明が特にないってことは「各」字は二重の表現になるから要らないってことかな?

 

 あと将軍号については、この時代特有の状況について考えていくべきだろうなぁと思う。特に今回冒頭、破虜大将軍から「大」が取れていることは注目に値するんじゃないかな。色々仮説を並べ立ててきたけど、「大は後世の開府と同じように賓客を中心として大将軍府のようなものを備えている」「大は兵の規模」の他にもう一つ個人的にある仮説としては、「大は節と似たような独立行動権を示す」っていう可能性を考えてもいた。

 まぁでも、「兵士の規模」、ってのが一番穏当である気がする。鮑永もやっていることを見る限り劉秀も「安集」が目的で遠征・攻撃が目的じゃないしね。

 

  あと、節の飾りはよく漫画なんかの兜についてるぴょこんとした毛を三つ束ねたものなんだなぁと思いました。

 

●訂正

 インコさんより二つ指摘がありました。

 まず一つ目

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster

@ookuranoharu 正直自信がないのでコメ欄ではなくこちらで言いますが、「平遣囚徒」は「囚徒について評議して(公平に扱いを決めて)(更始の元へ)送り込む」みたいな感じかもなあ、と思いました。「平」=「評」ではないかな、と

 ここから『新字源』の【平】の項目を引き直してみると【平議】という項目が在り、  漢籍電子文献でググると梁統伝付梁冀伝に

尚書事。[四]謂平議也

 とあり、平のみで平議として用いられる用法があること、また現代的に評議となす事が多い位置に平議とする用法も豊富にあり、また

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster
@ookuranoharu 注で言っているところの「斷理冤獄」に対応するのではないかな、ということですね

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster
@ookuranoharu 注で言っているところの「斷理冤獄」に対応するのではないかな、ということですね
 

 というリプライから本文を確認するに、注と対応させるのが確かに漢文としての様式として整っているので、私もこのインコさんの見解が最も正しいと思いました。これにより訂正致します。

 (ちなみに「平遣」だと『後漢書』の当該記述以外は平が人名である事例以外ほとんど引っかかりませんでしたw意外とありそうな語順なのにw)

 

 二つ目

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster
@ookuranoharu あと、注の「刺史行郡國,省察政教,黜陟能不,斷理冤獄」は「刺史は郡国を巡行して政治教化の行き届き具合を監察し、無能な長官は左遷、有能な長官は昇進させ、冤罪かどうかを判断する」というところかなあ、と思いました。
少なくとも前漢の刺史は巡回するものなので

 すみません、これはわたしの凡ミスですw

 「能不」を「能うざる」と読んでるのもどうかしてますね、これは「能否」と同じ表現だ。

 

(2016/12/14 21:12 初稿)

(2016/12/14 21:22 校正&微加筆)

(2016/12/15 18:25 訂正&微加筆)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆

     中華書局『後漢書集解』選:王先謙