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二十四史邦訳計画 『後漢書』 光武帝紀 第一上 劉子輿、即位

光武、河北行その1

 ●本文

進至邯鄲,〈一〉故趙繆王子林〈二〉說光武曰:「赤眉今在河東,但決水灌之,百萬之衆可使為魚。」〈三〉光武不荅,去之真定。〈四〉林於是乃詐以卜者王郎為成帝子子輿,〈五〉十二月,立郎為天子,〈六〉都邯鄲,遂遣使者降下郡國。

 

〈一〉縣名,屬趙國,今洺州縣也。《前書》音義:「邯,山名;鄲,盡也。邯山至此而盡。城郭字皆從邑,因以名焉。」(集解)姚之駰曰上至邯鄲趙王庶兄胡子進馬醢先謙曰邯鄲在今広平府邯鄲県西南旧志十里趙王城

〈二〉繆王,景帝七代孫,名元。《前書》曰,元坐殺人,為大鴻臚所奏。謚曰繆,音謬。《東觀記》曰「林」作「臨」字。

〈三〉赤眉賊帥樊崇等恐其衆與王莽兵亂,皆朱其眉以相別,故曰赤眉。《續漢書》曰:「是時上平河北,過邯鄲,林進見,言赤眉可破。上問其故,對曰:『河水從列人北流;如決河水灌之,皆可令為魚。』上不然之。」列人,縣,故城在今洺州肥郷縣東北。(集解)先謙曰注列人鉅鹿県在今広平府肥郷県東北寰宇記十五里

〈四〉縣名,屬真定國,今恒州縣也。(集解)先謙曰今正定府正定県治

〈五〉《前書》曰,立國將軍孫建奏云「不知何一男子遮臣車前,自稱漢氏劉子輿,成帝下妻子也,劉氏當復」。故郎因而稱之。(集解)先謙曰官本注劉帝作劉氏据郎伝林亦疑惑以為真成帝子

〈六〉(集解)恵棟曰袁紀十二月壬辰也

 

●書き下し

 進んで邯鄲に至る,〈一〉故ての趙繆王の子の林〈二〉光武に說きて曰ふに:「赤眉は今河東に在り,但た水を決して之に灌ぎ,百萬之衆を魚と為さしむべし。」〈三〉光武荅へず,之に真定を去る。〈四〉林は是に於て乃ち卜者王郎を以て成帝の子子輿為りと詐り,〈五〉十二月に,郎を立てて天子と為し,〈六〉邯鄲を都とす,遂に使者を遣りて郡國を降下せしむ。

 

〈一〉縣名なり,趙國に屬す,今の洺州縣也。《前書》の音義に:「邯は,山名なり;鄲は,盡(つ)くる也。邯山は此に至りて盡くる。城郭と字は皆邑に從ふ,因みて以て名とする焉。」(集解)姚之駰曰ふ,上が邯鄲に至るに,趙王庶兄胡子,馬を醢して進む。先謙曰ふ邯鄲は今の広平府邯鄲県の西南,旧志に十里,趙王城に在りと

〈二〉繆王は,景帝の七代の孫にして,名は元なり。《前書》に曰ふ,元は殺人に坐して,大鴻臚の奏する所と為り。謚して繆と曰ふ,音は謬なり。《東觀記》に曰ふ「林」「臨」字に作る。

〈三〉赤眉の賊帥樊崇等は其衆が王莽兵と與に亂るることを恐れ,皆其眉を朱くして以て相別す,故に赤眉と曰ふ。《續漢書》曰:「是の時、上は平河の北,邯鄲を過ぎ,林進みて見,赤眉破るべしと言ふ。上は其の故を問ふ,對へて曰ふ:『河水は列人の北流に從ふ;如し河水を決し之に灌がば,皆な魚と為さしむべし。』上之を然らずとす。」列人は,縣なり,故城は今の洺州肥郷縣の東北に在り。(集解)先謙曰く注の列人鉅鹿県は今の広平府肥郷県東北に在り寰宇[1]に十五里と記せり。

〈四〉縣名なり,真定國に屬す,今の恒州縣也。(集解)先謙曰ふ,今の正定府正定県治なり。

〈五〉《前書》に曰ふ,立國將軍孫建奏して云ふ「何ぞ知らざる一男子,臣の車前を遮るに,漢氏の劉子輿を自ら稱す,成帝の下の妻の子也,劉氏當に復すべし」。故に郎,因み而之を稱す。(集解)先謙曰ふ,官本の注に劉帝は劉氏に作る。郎伝に据ると,林も亦た以為らく真の成帝の子か疑惑せり。

〈六〉(集解)恵棟曰ふ袁紀の十二月の壬辰也。

 

●字釈

[1]【寰宇】天下、天子の治める土地

 

●訳

 邯鄲に進み入った。〈一〉かつての趙繆王の子である劉林が〈二〉光武に説いていうところによると:「赤眉は今河東にいる,ただ水を決壊させてこれに注げば,百万の兵といえど魚となるだけだろう。」〈三〉光武は答えることなく、真定を去った。〈四〉劉林はこれを受けてすぐに占い師王郎をもって成帝の子、子輿であると偽り,〈五〉十二月に,王郎を立てて天子とし,〈六〉邯鄲を都とし,遂に使者を送って郡国を降服させ始めた。

 

〈一〉縣名である,趙国に属す,今の洛州縣也。《前書》の音義によると:「邯は,山名である;鄲は,その尽きるところであると。邯山はここに至って尽きる。城郭と字は皆その邑名に従い,邯山が尽きることにちなんで名付けられた。」(集解)姚之駰はこういっている。光武が邯鄲に至ると趙王の庶兄、胡子(劉林)が馬をシオカラにして進呈した。先謙はこう言っている。邯鄲は今の広平府邯鄲県の西南,旧志によると十里、趙王城にあると。

〈二〉繆王は,景帝の七代の孫であり,名を元という。《前書》にこうある,元は殺人に連座して,大鴻臚に上奏されることとなり。謚して繆と言われた,音は謬である。《東觀記》には「林」を「臨」の字でかかれている。

〈三〉赤眉の賊帥である樊崇等は、赤眉の軍が王莽の兵と混同されて混乱することを恐れ,皆その眉を朱く染めて区別した,だから赤眉というのだ。《續漢書》によると:「このとき、光武は平河の北,邯鄲を過ぎたところで,劉林が進み出て,「赤眉破るべし」といった。光武はそれは何故かと聞いたところ,劉林は答えていった:『黄河の水は列人県の北の流れに従う;もし河水を決壊させてこれに注げば,みな魚のようになってしまうだろう。』光武はこれをしりぞけた。列人は,縣である,故城は今の洛州肥郷縣の東北にある。(集解)先謙はこういっている。注の列人鉅鹿県は今の広平府肥郷県東北にある。寰宇[1]によると、十五里と記せり。

〈四〉縣名である,真定國に属している,今の恒州縣である。(集解)先謙はこういっている,今の正定府正定県治であると。

〈五〉《前書》にはこういっている,立國將軍の孫建が奏していうには「全く知らない一人の男が,臣(わたし)の車の前を遮って,漢氏の出である劉子輿を自ら称し,成帝の下の妻の子であり,劉氏の世に戻すべきだと」。だから王郎は,これにちなんで成帝の子劉子輿を名乗ったのだ。(集解)先謙はこう言っている。官本の注では劉帝を劉氏としている。王郎伝によると、劉林もまた劉子輿のことを本当に成帝の子であるのか疑っていた。

〈六〉(集解)恵棟はこういっている袁紀によると、十二月の壬辰のことであると。

 

●私見

 さて、王郎の正体はなんだったのでしょうね。正直をいうと、王郎が劉子輿であろうとなかろうと、劉林にとってはどうでも良かったのではないかとは思います。そして劉林は蜂起が成功したとしても、いずれ王郎を殺したのではないかな、と思って居ます。光武に対して建言したのは、どちらが御しやすいか、ということを考える上でのテストだったのではないかと。真定王劉楊の場合も、劉秀をいずれ除き自分が帝位に就く腹づもりであったように思いますし。逆に除かれた、というだけの話であってね。

 劉林も劉楊も恐らくかなりの有力者であったと思いますが、どちらもまた直接立たなかった、というのはつまり自ら立つことを避ける風があったのでしょう。というより、文帝の際に斉王ではなく代王が立てられたことの故事が、何らかの形でここら辺ではまだ影響を持っていたのかも知れません。

 劉林の発言が実行されていないことを少し疑問に思い、色んな疑惑をかけてみました。直球に「自分の支援を受けて皇帝を名乗るか」と聞いた可能性も考えましたが、もし敵からまでそんなことあったら王朝にとって超都合が良いんで書かれてるでしょうし注で比較なんかの形で文献残ってるでしょうね。あるいは劉林から自分に従うことを求められたか。これも有りそうですがやっぱり特段ねじ曲げる理由がなさそうです。皇帝になった人間に「自分に従え」と増上慢をいうキャラクターが一人や二人いてもおかしくないですし。何かを試すためのブラフ、というのがやはり1番蓋然性が高いでしょう。

 

 今回難しかったのはまずは「寰宇」でしょうか。まぁでも『旧志』と同じ文脈で出てくるので何か地図か地理志の一種だと思うのですが、私は浅学にして名前を知りません。

 

●訂正&追記

 インコさんからまた情報提供頂きました。

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster

@ookuranoharu 太平寰宇記では

 ありがとう御座いました。恥ずかしいことに全く知らなかったのか大学時代にたたき込まれたのに覚えてなかっただけなのかも判然としないくらい記憶にない情報です。『御覧』はよく聞くのに聞かないせいだと過去の史家たちに責任転嫁しつつ。

名菓ひよこ鑑定士 @Golden_hamster

@ookuranoharu あと、劉林についてはどこかの可愛い小鳥がhttps://t.co/8AL5IKUUvGこういう記事を書いたことがあります

  ほうほう。これはこれは。というかどうなんでしょうね。これは、ただ怪しいととっていいのか。記録に当たって怪しいところを作られたとみるべきなのか、色々見方があると思います。ただ、趙繆王について突っ込みが入らないのは、本日更新致しました最新記事にある国の異同のような不思議な事態が普通にこの頃の史料としてはあって、怪しいとも確定仕切れなかった可能性も無視できないような気も私の見解としては残して起きたい限りです。(官僚答弁)

 

(2016/12/17 21:32 初稿)

(2016/12/31 1:44 訂正&追記)

漢和辞典:角川『新字源』改訂版四二版 編者:小川環樹 西田太一郎 赤塚忠

ソース元:後漢書 - 维基文库,自由的图书馆

     中華書局『後漢書集解』選:王先謙